交響曲第4番第1稿のミステリー

菊地@外渉(第7回プログラムより)


 ダスビダーニャをごひいき下さる皆さん、そしてショスタコーヴィチの熱烈な崇拝者である方々に、今回の演目、交響曲第4番に関するミステリーについて興味深い話題を一つ提起したいと思います。

 ダスビダーニャ第4回定期演奏会で配布されたプログラムに掲載の、ダスビメンバー一行のロシア渡航記を読まれた方は、ショスタコーヴィチの手になる聴いたことのない「第4」のスコアと遭遇したというレポートを記憶されていると思います。
 その場に居合わせた指揮者ロジェストヴェンスキー氏から「...これは交響曲第4番の第1稿です!」という説明があり、一同が驚嘆したという謎のスコア。これはすでに日本のいくつかの音楽図書館や資料館で閲覧可能な、モスクワ版ショスタコーヴィチ作品集(全42巻)の第2巻で見ることが出来ます。「第4」の自筆スコアの最初のページとして写真が載っていますが、そこに書かれた音楽は現在私たちが交響曲第4番として知っているものとは全く違います。

 実はロジェストヴェンスキー氏の解説による、交響曲第4番の成立についてのレクチャーの録音が存在しており、筆者は蒐集家の知人を通じてその内容を知りました。それはロジェストヴェンスキー氏がソビエト国立文化省交響楽団を指揮して録音した同曲のLP(2枚組輸入盤)の付録として収録されたものですが、あにはからんや、その中にこの第1稿の演奏が入っていたのです。
 交響曲第4番第1稿(以下「第4」初稿とします。)はまず朗々たるヴィオラ・ソロで開始され(譜例参照)、やがて低音弦のトレモロ、バス・クラリネット、コントラファゴット、テューバ、タム・タムの弱奏にいざなわれて不気味なフルート・ソが入ってきます。およそ4分間はまったく現在の「第4」と共通するテーマがなく、アレグロに入ってしばらくしてからやっと現在第3楽章で聴かれる音楽(トロンボーンの強奏、ドーレードレードレドーレー...)が違った編成で鳴り渡ります。

 筆者の語学力ではロジェストヴェンスキーの講釈を完全には聞き取れませんが、少なくともショスタコーヴィチが撤回したスコアがどのようなものだったのかについてはふれていません。実はここからがミステリーです。ここで筆者の推論を気ままに披露させていただくことをお許し下さい。


 第4交響曲完成当時ショスタコーヴィチが撤回したスコアは現在聴かれるものであると誰しも思うでしょうが、この「第4」初稿の存在が明らかになったことにより、別の可能性も出てきます。作曲者が初演を思いとどまった理由に関する考え方もかなり変わってくるのではないでしょうか。
 音楽は「第4」決定稿よりさらに深遠で、鬼気迫る迫力と暗い感情に充ちています。そこにはオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の音楽からさらに一歩踏みんだ情感表現に加え、同時代のロシア・アヴァンギャルドの作曲家と通ずる音楽、さらには新ウィーン楽派(例えばベルク)への接近も感じられます。もちろんこれらは決定稿からもかなりうかがえる面ではありますが。
 撤回されたスコアは紛失したとされています。その復元は、指揮者コンドラシンが初演の話を持ち出した時に志有る音楽家が散逸したパート譜を集めて行った、ということで話は落ち着いていますが、これは本当でしょうか。

 ショスタコーヴィチは同じ作品の改訂を好まない人だったと言います。例外は前出の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」で、もっぱらソビエト当局が上演を許してくれる形に直したということがよく言われます。しかし作曲者は四半世紀前の自作に手を加える際、その時の自分の考え方、音楽を何も盛り込まなかったのでしょうか。これは違います。ここで件の第4交響曲についてもやはり同じ見地に立ってかなりの部分を書き改め、また書き加えたとしても何の不思議があるでしょうか。これには根拠もあります。
 この交響曲にも作曲者のイニシャル(有名なDSCHの他、DSH、DCH、DS、DC等々)の応用形が随所に見られますが、これは第1交響曲からすでに顕著なことなので、書き加えたかどうかの根拠にはなりません。しかし全体的に見て、やはり後期の作品らしいところが散見するのは確かです。
 それは第2楽章に顕著で、まず交響曲第10番第1楽章との共通主題(フルート)。これは未来の作品への予言ではなく、数年前の作品のパロディーとも考えられます。それからこの楽章の終わりに現れる打楽器アンサンブル。これは後のチェロ協奏曲第2番や交響曲第15番に出てくるものとかなり発想が近いです。つまりこの部分の「作曲」年代がそれらに近いのではないかと推察出来ます。


 第4交響曲に先だって完成された「五つの断章」という作品があります。特異な編成で書かれた小品集で、初演は「第4」よりもさらに遅い1965年でした。音楽は「第4」初稿にかなり近い雰囲気を持っていて、これらがもしかすると交響曲に使われる予定だったのではないかと思わせるほどです。「断章」とはまさにこれを指しているのではないでしょうか。ちなみにこの作品は現在作品番号42ですが、もともとは作品43だったそうです。これは現在第4交響曲につけられている番号ですが、「第4」初稿のスコアに何やら30番台の作品番号が記されているのも不思議なことです。そう言えば今回の演奏会で使用するパート譜の中には「作品37」(現在劇音楽「人間喜劇」につけられている番号)と記されているものがあるようで、これも何らかの事実を暗示しているように思われます。

 そう、第4交響曲を初演する予定だったシュティードリーが取り組んでいた音楽、1936年にハチャトゥリアン夫妻の前で作曲者がピアノで弾いたという新しい交響曲は、「第4」初稿だったのではないか。そして25年後にコンドラシンが初演した音楽は、残されたパート譜などをもとに作曲者が新たに作り直したものだったのではないか。撤回した理由も、やはり当時のロシア・アヴァンギャルドたちの二の舞(社会的に弾圧される等)を踏まないようにとった措置だったのではないか。これが筆者の推論です。

 この推論を左右するであろう資料として、1946年に出版されたという2台ピアノのための編曲版(作曲者による)があります。これが現存しているならば、その内容でかなりのことが判るでしょう。またコンドラシンが初演時に使用したスコアも見てみたいところです。ただ筆者が確信しているのは、作曲者が自分で失敗作だと思っているものを、手数かけて初演依頼するはずがないということです。また当時指揮者はシュティードリーだけではなかったのですから、演奏や解釈が気に入らなかったということも初演撤回の理由としては弱いと思います。

 ことの真偽はどうあれ、これは交響曲第16番伝説(「ミケランジェロの詩による組曲」にかなりの要素が使われていると言われますが)に次ぐショスタコーヴィチ・ファンの気になる話題ではないでしょうか。


 「第4」初稿はロシアのDSCH出版から将来的に出版される予定があるとのことです(おそらく断片集になると推測されますが)。これからもますますミステリーを呼びそうな交響曲第4番。この交響曲の“反省”が名作「第5」にどう現れたのか。「実験的な作品」で片づけるのはだいぶ早いような気がします。


もとい