夜明けの塩酸ピリドキシン
written by おさだまさひと(cond)
レイコは赤坂にあるオフィスのOLでありロシア人情婦でありオーケストラ・ダスビダーニャというオーケストラの支持会員であり、23才のくせに砂肝を塩焼きで食べるのが好きで、宮城の生まれであるにも関わらず毎朝クロワッサンを食べ、低血圧のくせにレバーは決して食べない。
「今日は行きたくないのよ」
「4時間も待たせといて何だよ」
レイコが常連としている会員制ロシアンバーは、有栖川公園の近く、ロシア大使館から歩いても5分はかからない超高級マンション『グランヴェール・広尾』の最上階にある。バーの名前が変わっていて「戦争と平和」というらしい。レイコはいつもそう呼んでいた。マンションのオーナーが趣味でバーを経営していて、レイコはそのオーナーと3回だけ肉体関係があったが、2人とも極度の低血圧であったためステディな関係は育たなかったという。レイコはいつかシーバス・リーガルを浴びるほど飲んでトイレで吐きながら私にそう言っていた。低血圧が2人に如何なる影響を与えたのかは私は未だ聞いていない。
その「戦争と平和」に91才のロシア人のバーテンダーがいて趣味でヴァイオリンを弾くらしい。彼が店に現われるのは彼の気が向いた時だけで、普段は彼の甥のユーリーが務め、ユーリーの情婦がレイコだ。私は91才のバーテンダーが造る、或るカクテルを1度でいいからどうしても飲みたくて、今日レイコに連れて行ってもらう約束だった。今日久しぶりに彼がカウンターに立つとレイコはユーリーから聞かされていたからだ。
「そのカクテルの名前ね、ワインの年代物みたいで正確には分からなかったけれど、ユーリーと泊まったニューオータニのルームキーを見て思い出したの。ルームナンバーがおんなじだったから」
「いつか連れていってくれよ、絶対に。『戦争と平和』」
レイコは私の唇を軽く吸うとジンを喉に流して呟いた。
「そのカクテルは“1905年”っていうのよ」
ビル・エバンスのWALTZ FOR DEBBY が優しく、柔らかい魂みたいに流れていた。
バカラのシャンパン・フルートでキール・ロワイヤルを飲みたいと、バーテンダーのナカムラに頼んだ時、私とレイコの後ろから見慣れない男性が、「いま、せんきゅうひゃくごねんって言いましたよね…」と私に向かって静かにゆっくり笑った。
彼は「よこにすわっていいですかぁ」と言い終わらないうちに腰掛けて、「せ、せ、せんきゅうひゃくごねん…」と嬉しそうにウオッカが入っているストレートグラスに唇を近付け一口舐めると、レイコに「せ、せんそうとへいわでおあいしましたねぇ」とゆっくりたずねた。
レイコは「あなたは確かシラカワサンね」と教育テレビで童話を読む、まるでバージン風のおねえさんのような口調で応えた時、店の音楽がビル・エバンスからロシア民族合唱団が歌うカリンカに変わった。
突然シラカワは、壁にはめ込まれている大きなグラスケースの中のバカラのグラスの森を指差して「ち、ち、ち…」と引き攣って何かを言いかけた。
バーテンダーのナカムラがゴブレットにミネラルウォーターを注いでシラカワの前に差し出した。シラカワは喉を鳴らしてミネラルウォーターを一気に飲むと、ウオッカとそれ以外のアルコールが混じりあった息を大きくはいて落ち着いた。再びゆっくりと、「ちきゅうはあおかった…」と口にした時、私はブルーの間接照明に浮かび上がったグラスの森が、中学2年生の林間学校の1日目の夜、消灯された部屋の窓から眺めた白い月にぼんやり照らされた青白い林の風景とダブり、その頃好きだった隣のクラスのタエコと2人でよく唄ったビートルズのペニー・レインが聞きたくなった。
バー・ワンダーランドにカリンカが流れて、私のキールロワイヤルが半分に減った。
シラカワは「ちきゅうはあおいが…」と相変らずゆっくり低くつぶやいていたが、目を閉じていきなり早口で
「レイコさん、今すぐ『戦争と平和』に行くのです、その男性を連れて、さあ早く」
と、チェーホフの芝居に出てくる新劇役者の様に、良く通るテノールの声で叫んだ。
「今日はいやなのよ、お願い」
シラカワはロレックスの腕時計に目を落とした。
「もうすぐよがあけますよぉ」
1997年1月9日に日付は変わって午前3時を回っていた。
1年前、レイコは「1905年」という不思議な感動をもたらすというカクテルを体験した。レイコはバーテンダーのナカムラが氷の面取りをするサクサクという湿ったリズムが、あの朝聞こえた軍靴のリズムとダブって1年前の朝が蘇った。寒さなど一切感じない朝だった。
私はレイコの肩を抱き、キールロワイヤルを空けて、シラカワと同じウオッカをもらうことにした。
紫の夜明けを何かの鳥のシルエットが横切って、レイコは自分がこうして歩いていることに気がついた。失いかけた記憶を辿ることよりも今は、空を舞う2羽の鳥のシルエットを追うことが先決であると神が言っているようだった。そしてレイコは実行した。
2つのシルエットは、あるときは平行に、またあるときはシントメリーに、勢い良く噴きあがる噴水の輪郭をなぞるような軌跡を描いた。自由に舞う2つのシルエットの動きに、その2羽の鳥にしかわからないシステム、もしくは強い意志によって統一されたルールが感じられた。
いつかテレビで見たことがある航空自衛隊の航空ショーの編隊飛行を思いだしたが、何かが明かに違っていた。2つのシルエットが描く軌跡が、もし黒いラインでのこされたら、とレイコはそのラインをイメージした。ぐにゃぐにゃに捩れた太い針金が何本も幾重にも絡み合った天井の下で見上げる夜明けみたいだと思った。それはきっと爆風で屋根を失った頼りない家屋の針金だけの恥をさらしたような天井だと納得した。そんなイメージを今までしたことがなかった。どこからか教会の鐘がきこえて来てなぜかほっとした。ほっとして、自分が今まで戦意を失った戦士のようにただひたすら歩いていたのだと改めて思った。
ただひたすら歩いて、本能的に美しい物に憧れていた。止っていたレイコの思考があるイメージによって静かに動きだし、すべての記憶が蘇って、数時間前に「バー・戦争と平和」で「1905年」というカクテルを飲んでからのことを丁寧に思いだした。レイコはコート無しでシルクのノースリーブのワンピースだけで冬の夜明けを歩いていた事に今やっと気がついて、突き刺すような寒さを全身で一気に感じた。すると、今まで忘れていた寒さが、それまでの曖昧な感覚だけの自分の中から具体的な事実だけを抽出してくれた。そしてそのことをニューオータニに泊まっているシラカワという弁護士に伝えたくなった。というより、そのために広尾から歩いてきたのだと気がついた。
ひたすら歩いている時、聞こえていた軍靴の踵が音を立てて歩く緊張したリズムも、レイコのカルチェのハイヒールの音だったことに気がついた。1996年1月10日の朝の事だった。
レイコはシラカワの部屋の扉をノックした。ホテルの廊下に響いた渇いたリズムが、さっき錯覚した軍隊の行進の靴のリズムを想起させた。しかし、何よりも驚いたのは、部屋から現われたのが、レイコの情夫ユーリーだったことだ。ユーリーは黙ってレイコの手を引いて部屋に入れた。
二つあるベッドの窓際にある方にシラカワは静かに眠っている。もう一つのベッドはルームメイクのままでその上には男物の衣類が無造作に脱ぎ捨てられていた。
「あんたたち、ホモってたの?」
レイコは、ユーリーが両刀使いであることはユーリー本人から聞いていたが、これまで半信半疑ではあった。ユーリーがカーテンを引いて朝日を部屋に入れると、彼が着ているバスローブがよけいに眩しく見える。
「寒いわ。シャワー浴びてくる」
レイコはバスルームのドアを開けると、熱気と湯気と男の欲望が入り交じった息詰まる空気に襲われ、立ち眩んでその場に嘔吐した。その時、全身の緊張が解けて、訳もわからず涙が溢れた。
洗面台の前にしゃがみこんだままレイコは、昨日飲んだカクテルの名前が思いだせないでいた。しかし、飲んで忽(たちま)ち目の前が、傷だらけのモノクロフィルムの映像の様に見えだしたことはよく覚えていた。
ベッドがある方から、シラカワの「ユーリーさまぁ…」と、子どもが哀願するみたいな甘えた声が聞こえてきて、その声も忽(たちま)ち荒い息使いに変わっていった。
レイコは一人バスルームで、自分の嘔吐の後始末をして頭から熱いシャワーを浴びた。その間、何とかカクテルの名前を思いだそうとしたが駄目だった。身体を拭きながらバスルームの壁に小さく赤い文字があるのを見つけた。それは、ユーリーが書くいびつな片仮名であることはレイコに判断できた
レイコにはなんのことか解からなかった。その文字を指で触れてみると指先が赤く染まった。きっとシラカワの尻が切れた時の血だと思った。
レイコはバカラの袋とフェラガモの袋の二つの赤い色を思いだした。バカラの赤は誘惑を、フェラガモの赤には苦悩を、シラカワの血の色には生命を直感して、レイコはその文字を手でふき取った。
レイコは血の着いた手を洗いながら、渦を巻いて流れていく赤い水を見つめて、その小さな穴へ生命を洗い流している残酷な気分になった。
ユーリーとシラカワの情事が終わったら、バービヤールってなんのことなのか二人に訊ねてみようとレイコは思った。
1998年1月X日、G・V
1998-1-5、新宿Pホテルにて、M改めF
from シラカワ