(特別寄稿)
「ダスビダーニャ」に望むこと

金子建志(かねこけんじ)



金子建志氏プロフィール

1948年千葉県生まれ。東京芸術大学音楽学部楽理科卒。
音楽理論を柴田南雄、指揮法を渡邊暁雄、高階正光に学ぶ。
現在、常葉学園短期大学音楽科教授を勤めるほか、市川交響楽団、千葉フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者、世田谷交響楽団名誉指揮者としてアマチュア・オーケストラ活動に積極的に加わっている。
音楽雑誌(「音楽現代」「レコード芸術」「朝日新聞」の新譜月評ほか)での評論活動、NHK-FMの音楽番組(「海外クラッシックコンサート」ほか)の解説者としても活躍中。

  • 編/解説書
  • 「朝比奈隆 交響楽の世界」(早稲田出版)
  • 著 書
  • 「こだわり派のための名曲徹底分析 ブルックナーの交響曲」(音楽之友社)
  • 「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲」(音楽之友社)
  • 「こだわり派のための名曲徹底分析 ベートーベンの<第9>」(音楽之友社)


 『ダスビダーニャ』の第1回演奏会は、プログラムからしてアマチュア・オーケストラの発足演奏会としては、かなり変わっていた。まず、ロシア語の『また、会いましょう=さよなら』を表す、逆説的とも採れるオーケストラの名称。そしてそれからも明らかなように、ショスタコーヴィチ(以下D. S と略す)の作品のみを演奏しようという、基本方針。それも、ピアノ協奏曲第1番と交響曲第7番〈レニングラード〉の2曲というのは、プロ・オケだったら、引き受けるのに難色を示すに違いない、超ヘヴィな選曲だ。


 そもそもD. S. の作品はどちらかというとアマ・オケ向きとは言えない。私は〈5番〉〈7番〉〈9番〉しか振ったことはないが、アマ・オケにも取組み易いチャイコフスキーやドヴォルザークの交響曲等に較べると、段違いに難しく、部分的にはマーラーよりも始末におえないところが多いというのが正直な実感だ。
 問題は色々あるが、一つは、奏者にプレッシャーを与えるタイプの恐ろしく難しいソロが必ず出てくること。しかもD. S. のソロは、時間的にかなり長く、一旦スポットを当てると、延々と、その楽器をアップで映し続けるカメラワークに似ている。〈7番〉のフルート、バス・クラリネット等は、その典型だ。
 また〈9番〉のヴァイオリンや、トロンボーンのソロみたいに、それほど長くはなく、見掛けは、そう難しくは思えなくとも、瞬間芸的な完璧さを要求されるソロもプロ、アマを問わず、オケ・マンにとっては、リスクが大きい。やや長いが、〈5番〉のスケルツォ楽章のヴァイオリン・ソロも同様であろう。こうしたタイプのソロは、パロディやギャグなるが故に、技術的な完璧さが必須の条件。トチったギャグは、失笑を買うだけでなく、本来の意味と逆に作用してしまうから、恐いのだ。
 もう一つ、実際に振ってみて実感させられるのは、マーラーのように多くの楽器がポリフォニックに絡まる部分が意外に少ないこと。[ユニゾンの主旋律+単純な伴奏音型]若しくは[2声部の絡み]程度の構成で進む音の薄い部分が圧倒的に多く、それに不参加な楽器は、延々と“開店休業”状態が続くのだ。これは、特にオマ・オケの場合、あまり歓迎されない。
 マーラーのように声部が多く、楽器の出入りが頻繁だと、整理は大変だが、例えば、ホルン奏者の腕が弱く、ユニゾンで重なっているチェロが強力といった場合に、バランス操作で弱点をカバーできるという利点がある。しかし、D. S. の場合、ホルンとチェロだけが2声で絡みあい、他の楽器は休みというようなパターンになっていることが多いので、技量の優劣は隠しようが無い。要するに、ホームランか三振かが、誰の目にも歴然としてしまうので、リスクが大きいのだ。逆に言うと、ショスタコービッチの交響曲を実演で、ノン・ミスで演奏できたなら、そのオケの技量は、信頼に値するということになろう。


 そうした観点で、『ダスビダーニャ』の第1回演奏会を振り返ってみると、かなり高いレベルをクリアしていたように思う。そして、何よりも、D. S の曲を演りたい人が集まって作ったオケならではの共感が、熱気と共に伝わってきたのが良かった。
 第1回演奏会で、もう一つ印象深かったのは、〈7番〉の前に、詩の朗読があり、イデオロギー的な側面をはっきり打ち出したこと。ただし、個人的には、聞く前に水路づけをし過ぎるのは、危険な側面があると思っている。20数年前、歌声喫茶の流行と共に『森の歌』がベートーヴェンの〈第9〉みたいに持て囃された、あの“第1次D. S ブーム”、即ち『赤旗−ソ連−共産主義−ショスタコーヴィチ』として、結果的にD. S の本質を短絡化してしまった例があるからだ。耳で聴かせるメッセージは先入観として強力に作用する反面、自我をはっきりと持った聞き手には反作用を及ぼし易い。「フライド・ポテトはいかがですか?」と言われると、それまで、多少は、買ってもいいと思っていたのに、「いいえ」と答えてしまうのと同じだ。


 しかし、現在の日本のコンサート事情を見てみると、あまりにも音楽芸術の思想的な側面、社会的な側面が蔑ろにされ過ぎていると思うのも事実。音響的な興味−生理的な興奮−曲芸を見るスリル−娯楽としての面白さ−等を求めるだけで、ベートーヴェンやマーラーを聞くというのは、どうかと思う。ブラームスが〈1番〉で言おうとしたことを、『内面の勝利』みたいなレベルの言葉に置き換えて、善しとしているのでは、あまりにも次元が低過ぎるのではないだろうか。
 ヴォルコフの『証言』の信憑性はともかく、あの本以来、少なくともD. S に関しては、「賑やかに終わるからといって、勝利を表しているとは限らない」といった“曲の裏を考える”という聴き方が一般的になったのは、進歩だと思う。


 モーツァルトやハイドンのように、生涯の年齢よりも、交響曲の数が多かった時代ならまだしも、ベートーヴェン以降、作曲家は、交響曲を書く場合、段違いに長い年月を費やすようになった。そこには、単に音響としての面白さだけではなく、精神的な側面や、音響的なメッセージが織り込まれていると考える方が、当たり前なのだが、今日の日本のクラッシック界のように、娯楽性優先、コマーシャリズム優先、話題優先の世の中になると、芸術作品として最も重要な、そうした『意味』を考えることが、どうしても疎かになりがちなのだ。
 筆者は[フランス革命→ナポレオン戦争]を背景に生きたベートーヴェン−最も典型的なのは〈エロイカ〉〈運命〉〈第9〉、そして〈7番〉と〈ウェリントンの勝利〉−と、[希望に満ちた共産主義→恐怖政治に摩り変わった共産主義]という、20世紀最大の実験国家の中に生きたD. S に、極めて近いものを感じている。
 ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラフマニノフとは違って、国外に逃れようとはせず、生涯を通じて、祖国に留まってソ連政府と対峙する道を選んだD. S の生き方の毅さも、パトロンの貴族達が逃げ出した後も戦禍のウィーンに留まって作曲を続けたベートーヴェンに通じると思う。見掛けは、おどけてみせたり、陽気に騒いでみせたりしても、その底に、常に不屈の精神が感じられるのも、同じだ。そして、国家や社会が、人間的なものと、非人間的なものとに分かれたとき、常に人間的な側に立って、真実を語り続けることも…
 『ダスビダーニャ』の皆さんの演奏が、常に、そうした面を真摯に伝えてくれることを、期待したい。

94年9月21日 金子建志


オーケストラ・ダスビダーニャ第2回プログラムにて、金子建志氏に寄稿していただいた文章を転載させていただきました。

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