猿岩石に負けないっ!
ロシア滞在日記(第4回プログラムより)
by おーさか@Ob
※日付の後の小見出しは、編者が挿入
まず一隊5名を簡単に紹介しよう。
★白川悟志…隊長。簡単な翻訳、リコーダー演奏担当。ロシアは初めて。ソ連は2回の渡航歴あり
★阿部 崇…記録撮影担当。6万円のEOS KISSを携帯。フィルムを10本使いまくる。
★小林 猛…ルーブル→円換算担当。電卓を携帯する。ドル換算までやってくれた。
★高窪剛輔…監視役。唯一ショスタコーヴィチに魅力を感じていない人で、突っ走る我々を冷静に観ることが出来る。現在当団の団員ではない。
★逢坂禅哉…筆者。道案内担当。地図を携帯する。但し、最終日道に迷ってしまい、他の隊員から非難され担当を放棄した。
12月29日(日)実験中の犬に遭遇
アエロフロートでの10時間の飛行を終えて(客室乗務員セルゲイの日本語は乗客の笑いを誘っていた。)、19:00、モスクワ・シェレメチェボ国際空港に到着。タラップに降り立った瞬間、マイナス17度の寒さが肌を突く。”おお、ロシアだ”と思わせるに十分な演出である。民間空港とは思えない暗いターミナルへ移動するバスの手摺りは、あまりに冷たくて触れなかった。滑走路を犬が走っていた。隊長曰く「これは極秘に開発している”空飛ぶ犬”の飛行実験中らしい…。」(以後この手のギャグが毎日何十回となく頻発するが、全て省略する。)
ホテル到着後、US$をロシアルーブルへ換金。200ドル換えたら1,112,000ルーブル返ってきた。一刻も早いデノミを期待する。ホテル「ウクライナ」泊。
12月30日(月)クラースナヤ・・・・・
午前中クレムリンを観る。赤の広場で隊長が帽子を購入。(復員直後の日本兵のような姿になったのはこの時から。以後この姿はずっと続く。)昼食後、近くの楽器店と楽譜店に行く。そこで何と「ラヨーク」「黄金時代」「ボルト」の”3部作”のピアノスコアを発見。換算担当が金額をはじくと3部で3,000円に満たないとのこと。早速購入。展示されていたオルゴールについていろいろ説明してくれた女性店主のナターシャに感謝の気持ちを込めて、当団のチラシ2枚を献上した。当団のPRの言葉で添えて。夜はモスクワ音楽院大ホールでユーリ=バシュメット指揮とVla、モスクワソロイスツによる演奏会を聴く。シューベルト=マーラー「死と乙女」、シュニトケの新作(Vla と弦楽合奏)、シューベルト=ブラームス「交響曲第8番 未完成」。
会場でショスタコーヴィチ生誕90周年のポスターを発見。終演後、レニングラード駅から夜行列車「赤い星」号にてSt.ペテルブルグへ。車中泊。
12月31日(火)リクエスト
早朝、St.ペテルブルグ着。午前中アレクサンドル・ネフスキー修道院へ。ミサの後、近くのラザレフ墓地にある墓碑巡り。チャイコフスキーやボロディン、リムスキ=コルサコフの墓を目の前に各隊員、思い思いに過去の演奏会でのミスを懺悔していた。「いや、違うんだ。あの時N野が…」昼食時にヴァイオリンとピアノの生演奏が始まった。モーツァルト、ヴィヴァルディなどの調べが終わった後、ヴァイオリニストが「何かリクエストは?」と。我々のリクエストはすでに決まっていた。意表をつかれたのか、「OH…(^_^;)」と困ったポーズをしている。気まずい雰囲気を”タイスの瞑想曲”のリクエストが吹き飛ばしてくれた。
何事もなかったかのように演奏は終わり、ブラボーの声に包まれながら幕を閉じたのだが、何と暫くすると再び登場して「ショスタコーヴィチ!」と叫んでいるではないか。ヴァイオリニストもショスタコーヴィチをリクエストされてレパートリーにないとは言えなかったのだろうか、「馬あぶ」のロマンスを弾き始めた。思いがけない演奏に感動した我々は彼らに当団のチラシを2枚献上した。PRの言葉を添えて。ロシア人ヴァイオリニストのプライドを感じ取ることができた。
午後、エルミタージュ美術館へ行く。美術館前の宮殿広場で黙祷。身が引き締まる思いがした。夜はマリンスキー劇場で、レヴェンスキオルドのバレエ「ラ・シルフィード」を観る。ホテル「プリバルチスカヤ」泊。
1月1日(水)ス・ノーヴィ・ゴーラム
St.ペテルブルグで新年を迎える。ヨールカ祭では「カリンカ」の熱唱。隊長は某日本人英語教師とウオッカの一気飲み競争をし、勝利したが、体調やや不良。(筆者も振られたが、翌日確実に死ぬことがわかっていたため戦線を離脱した。午前中ペトロパヴロフスク要塞周辺へ行く。(本当はペテルブルグ音楽院へ行く筈だったが、地下鉄を乗り間違えて北部に来てしまった。)1917年10月革命の始まりを合図して発砲した「巡洋艦オーロラ号」を見た後レーニン広場へ。
午後、ペテルブルグ音楽院へ行く。改修中のため、第7番「レニングラード」初演の記念碑は発見できなかったものの、モスクワ音楽院と並ぶロシア=ソヴィエト音楽の伝統と重みを十分に感じ取ることができた。
帰りは時間がなくなったので白タクでホテルへ。親切なドライバーだった為、当団のチラシを献上。夜はマールイ・オペラ劇場でボロディンのオペラ「イーゴリ公」を観る。ホテル「プリバルチスカヤ」泊。
1月2日(木)幻の4番との出会い
早朝、アエロフロート国内線で再びモスクワへ。自由席の「乗合飛行機」だった。午前中赤の広場のレーニン廟へ行く。廟の外側には歴代書記長の墓碑が並んでおり、その後ろには片山潜や宇宙飛行士ガガーリンの墓碑も見えた。廟の中は厳粛な雰囲気で、小柄なレーニン氏が横たわっていた。午後、プーシキン美術館へ行く。ここで思いがけない展覧会に遭遇した。何と「ショスタコーヴィチ展」である。期せずしてモスクワには博物館のないショスタコーヴィチの展覧会が開催されていたのだ。筆者の感激もひとしおだったので、隊長のそれは測り知れない。
シンフォニーでは1番を始め4、7、8、10、11番の自筆譜、彼の肖像、眼鏡や作曲机等の愛用品の数々、初演時のポスターやプログラム、手紙等200点はくだらなかったと思う。予定より1時間延長して見て回った後、ひとつだけ分からない展示品があることに気がついた。「交響曲第4番」と書いてある自筆譜である。
冒頭部分だったが、我々が聴くアレグレットでのTuttiではなく、それはアダージオで、中低弦の延ばしで続いていた。そこに座っている学芸員のおばちゃんに聞いても分かりそうにないし、このまま迷宮入りするかと思われたその時、何とロジェストベンスキー氏が現われたのだった。隊長が氏に「これは本当に4番なのですか?」と聞いてみたところ、氏は暫く自筆譜をじっと見つめ、そして「イエス、ファーストバージョン!」と。4番の初稿、それは現在我々が聴く4番とは全く異なるものだった。我々は感激のあまり茫然と立ちつくしていた。思いがけない発見の後、我々はノヴォデヴィチ修道院にあるショスタコーヴィチの墓へ向かった。近くで花を買い、墓石に添えた。献花の後、墓前にチラシを置き、我々のようなアマオケが日本に存在すること、今年2月の演奏会の事などを報告し、リコーダーによる11番冒頭の2重奏を始め、彼の作品を奏でた。
最初は厳粛な雰囲気だったが、そのうち調子に乗った隊員の一人が「レミbドシ(DEsCH)」と吹くべきところを「レミドシ(DECH)」と吹いたのでお開きになった。(隊長が「それじゃエスタコーヴィチやんけ」と言ったため)夜はボリショイ劇場でチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」とハチャトゥリアンのバレエ「スパルタクス」を観る。(筆者は体調不良にてキャンセルを余儀なくされた。残念。)ホテル「ウクライナ」泊。
1月3日(金)さらば、未完成の犬
午前中バスにて郊外クリン市のチャイコフスキーの家へ行く。そのままモスクワシェレメチェヴォ国際空港へ向かう。19:30発の予定が21:30発になったものの、アエロフロートにて帰路へ。空港ではまだ未完成の犬が走っていた。
以上、想い出深いロシアの旅になった。2月11日、この想いを音楽で表現したい。