JAHANGASTE  なぜ自分はここにいるんだろう。本当はいたくないのに。  誰も知っている人なんていない東京に鷹也はいた。  言葉も違う。自分の言っていることが通じないことも何度もあった。  なぜ自分はここにいるんだろう。本当は来たくなかったのに。  理由をひとつずつ考えてみた。  絶えることのない両親の夫婦喧嘩。  両親が鷹也自身にかけているプレッシャー。  それから逃れたかったのだろうか。  両親は一体どんな期待をしているんだろう。ぼくはぼくなんだ。ぼくの好きなようにさせて欲しい……。  気がついたら、進学塾に入れられていた。いつの間にか一緒に遊んでいた友達は、鷹也から離れていった。  成績は悪くなかった。いや、テストで悪い成績を取れば、両親は容赦なく鷹也を殴った。だから、それから逃れるために鷹也は勉強した。気が付くと全国模試でも上位の常連になっていた。何度も表彰された。  九州内で一番いいと言われている中学に当然のごとく合格した。だけど、そこには行こうとしなかった。 「東京へいく」  鷹也は両親に告げた。「東京の方が、人数も多いしレベルが高いからね」  両親は、鷹也のその言葉をあっさり信じた。  鷹也の精一杯の抵抗だった。  入学式の日は少し風の強い日だった。桜の花びらが美しく舞っていた。鷹也の両親も入学式には来た。ただし、彼らが学校行事に参加したのは、これが最初で最後だった。  中学は全寮制だった。平日は全員寮で過ごす。週末は、近くに実家のあるものは,実家に帰ったりしていた。  1部屋に4人ずつ入っていた。4人はすぐに仲良くなった。そのうちの一人は徳之というちょっと変わった男の子だった。ゲームが大好きで、パソコンを部屋に持ち込んでいた。もちろん、ゲームをやるなんて、一言も学校側には言っていない。もっとも、パソコンを持っている人は、極一部であるような時代だったが。  そのうち、鷹也は徳之と一緒にゲームをするだけではなく、作るようにもなっていた。雑誌に載っているダンプリストを打ち込んだり、時には自分でbasicを使ってプログラムを作ってみたりすることもあった。  ゴールデンウィークが終わった頃、鷹也は徳之の自宅に招待された。徳之の実家は都内にあり、寮から1時間もあれば行ける場所にあった。  そこで、鷹也はえもいわれぬ感情が自分を襲ってくるのに気付くのである。 「へぇ、鷹也、ってあなたのことだったのね。ノリがいつも話しをしているわ。じゃぁ、タカちゃんって呼ぶわね」  その言葉に、なぜか胸が高鳴った。  もう10年も前の話である。 「は?犯罪?オレ、前科なんてないぜ」 「何言ってるんだよ。詐欺罪、賭博罪、傷害罪、窃盗罪、飲酒法違反、競馬法違反、道路交通法違反、他にもあるだろうが」 「へ?」 「おまえ、昨日キセルしただろ。あれは立派な詐欺罪」 「うっ……」 「それから、高校の時に、隣のやつがむかつくとか言ってわざと風邪をうつしただろ。わざと、だと傷害罪」 「……うん」 「万札拾って、警察に届けないで酒飲んでたよな。これは窃盗罪」 「……あのなぁ」  徳之は怪訝な顔をしている鷹也を横目に笑った。 「こういう学問なんだから仕方ないだろうが。ま、犯罪なんて捕まるか否かの問題だけどさ」 「この法学オタクめが!絶対思考回路狂ってるぜ」 「よし、そんなこと言うなら、おまえが被告になっても弁護士なんか呼ぶなよ」  手をつないだり、腕を組んだり、腰に手を回しているカップルが多い中、男二人で新宿の喧騒の中を歩いているのは、結構むなしいものがあるが、それも仕方ない。  新宿も例に漏れず、たくさんのアミューズメントパークもといゲームセンター、略してゲーセンが存在する。今日はそこで世紀(?)の対戦を行うことになっていた。徳之は、先週格闘ゲームの対戦を申し込まれたのである。鷹也はおまけだ。  相手は山口とかいう男で、一部では有名人であった。というのも、各地のゲーセンに現れては、対戦台を荒らしていて、誰も彼に勝ったことがないという。その、山口との条件は、負けたら山の手線内のゲーセンには現れないということ。徳之はその条件をのんだ。  新宿西口にあるとあるゲーセン。まわりはパソコンショップが林立している。二人はその中に入った。タバコの臭いがつんと鼻をつく。  山口は先に来ていた。小柄でキャップを深くかぶっている。 「来たか」 「まだ約束の時間まで30分ほどあるな」  徳之は言うと、山口の横を通り抜けて、今日対戦するゲーム『バーチャル・ウォーリア』の台の前に腰掛けた。  おもむろに、Gパンのポケットから百円玉を取り出すと、投入口に入れた。ゲームがスタートする。 「徳之、大丈夫か?なんだか心配になってきたよ」 「なに、大丈夫だって。それよりエンディング見せてやるから待ってろって」  徳之はすでにキャラクターを選択して、敵を倒しにかかっていた。 「……おまえ、強いなぁ、やっぱり」  3セットマッチの格闘ゲームである。相手のライフゲージを0にするか、時間切れになった時、残りのライフゲージが相手のものよりも多ければ1本である。  徳之は、敵に1本も取らせずに最後の敵まで進み、それもあっさり倒してしまった。そして、画面にエンディングが流れる。 「おい、おまえまじで強えぇな」 「学校さぼってやってればなぁ。それでは、世紀の大勝負といきましょうか」  ある程度名のある二人である。どこで聞きつけたのか、たくさんのギャラリーが集まっていた。  鷹也は徳之の後ろで観戦することにした。  対戦を始める前に、エキシビションマッチということで、自分が普段使わないキャラクターで対戦し、それから本題に入った。  レバーを動かす音とボタンを押す音。必殺技が決まるごとに歓声があがる。  二人のこのゲームに対する気迫が伝わってくる、鷹也はそんな気がした。  やっぱり、好きなんだろう。ここまで極めるということは。  勝負は意外とあっさりと終わってしまった。  徳之のキャラが山口のキャラに必殺技を決めて勝負はついた。  ため息と歓声。 「約束は守ってもらいましょ」 「俺が言い出したんだ。当然だ」  言うと、山口はさっと席を立って去って行ってしまった。数人が声をかけたがそれすらも無視して。 「徳之、よかったな」  鷹也は徳之に近づいて肩をぽんと叩いた。「じゃ、祝勝会といくか」 「ちょっと来い、まだそんなに遠くには行ってないはずだ」 「え、何だよ」 「いいから」  徳之は人を押しのけて外へ出て行った。鷹也は何が何だかわからなかったが、とりあえず徳之の後を追った。 「山口!」  前方を歩いていた山口は足を止めて振り向いた。徳之は走って彼に追いつくと、彼の進路をさえぎった。「失礼」  言うや、徳之は山口のキャップを取った。 「何すんだよ!」  甲高くもやわらかい声。  長い髪がキャップの中からこぼれ落ちた。すかさず山口は徳之の手からキャップを奪い返すと、ロングヘアーの上から着けた。 「やっぱりな、君はどうみても女だよな。誰も気がついてなかったみたいだけども」 「オレは少なくともわからなかったぞ」 「それがどうしたってんだ」  山口は、徳之を避けて前に出ようとしたが、徳之はそれを手でさえぎった。 「今時、女の子がゲーセンでゲームをすることは、昔に比べたら普通のことのようになってきている。だけど、どうして、君はキャップをかぶって男のような身なりをしているのか、その訳が聞きたい」 「そんなこと、どうでもいいだろ」 「よくないよ、俺は君に興味があるんだ」  数日してから、大学帰りに寄ったゲーセンで、鷹也は徳之に会った。 「おまえってナンパ師だったのか?」 「そのナンパ師っていうのは何なんだよ」 「あの後どうしたんだ」  あの時、鷹也は横で二人のやり取りを見ていたが、徳之が強引に山口を喫茶店に連れ込んだ後は、あきれて一人でパソコンショップに行ってしまったのである。 「別に。ただ色々と話をしていただけだよ。名前は祐加子というんだと。西北大学理工学部情報数理科の二年生」 「それで」 「それでって、それだけだよ」 「なんだよ、つまんないな。あ、そういえばナミ姉元気か?」  ナミ姉とは、徳之の姉の波乃のことである。中学の頃から知っているので、かなり親しくしている。 「ああ、まぁな。折角『ワールド・レジェンドIII』が発売されたというのに、今度は日本文学学会だかどっかから論文書けってせまられてるみたいだぜ。大学院卒業してゲーム会社に就職したというのに」 「『III』は昨日やっと下北沢にも入ったよ。やっぱ、ナミ姉の作る格闘ゲームは最高だね」 「行っておくよ。姉貴喜ぶぜ。あ、今日家にいるから、俺ん家来るか?」 「おう、行くぜ。ついでに徳之が女を口説いていたことも報告しておこう」 「だから、違うってば」 「ほほう。否定するのにわざわざ顔を赤らめるのか」  鷹也は徳之の頭を小突いた。徳之は抵抗する様子もない。これ以上はそのことについて話さないだろうと思った鷹也は話題を変えた。 「ところで、徳之。おまえさぁ、卒論とかどうするの?」 「だから、法学部には卒論はないって」 「そうでした」 「お前は何を書くんだ」 「とりあえず百人一首でも研究しようと思ってるけど」 「思ってるって、もう5月だぞ。まだテーマが決まっていないのは問題なんじゃないのか?」 「そういうおまえだって、ゲームばっかやってないで、就職活動したらどうなんだ」 「してるよ。タカはどうするんだ、卒業したら」 「教員かなぁ。まぁ、東京は無理そうだから実家のある鹿児島あたりになりそうだけど」  色々と話しているうちに、私鉄の駅に着いた。鷹也は定期券、徳之は切符を買って入構し電車に乗る。徳之の家は鷹也の通学定期券圏内が最寄駅である。  10分も経たぬ間に電車を下りて、徳之の家へと向かう。  駅から徒歩10分程のところにある3LDKのマンション。徳之はここに姉と妹と共に生活している。両親は離婚して、父が残ったが、その父も6年前に交通事故で亡くなっている。その後は父方の両親からの仕送りなどで生活していた。 「ただいま。姉貴いる?」 「ノリ? おかえり」  中から波乃が出てくる。「あら、タカちゃん、お久しぶり。卒論進んでる?」 「全然」 「そう……さ、あがって」  ショートカットで背の高い女性である。鷹也の通う帝都大学の大学院でつい2ヶ月前まで研究をしていた。今年、修士課程を修了してゲーム会社に入社した。というよりも、そちら1本に絞ったという方が正しい。大学に入るやゲーム会社『えせくす』で企画のバイトをしていたからである。在学中に3本の格闘ゲームの企画にかかわった。 「卒論担当は誰だっけ」 「坂木先生」 「それなら大丈夫。書けば卒業間違いなしよ」  波乃は笑った。「ところで、『III』はやってくれた?」 「当然。いつも思うけど、いい出来だよ」 「ありがとう……ノリ、カルピスまだぁ?」  徳之は帰るやいなや、姉と自分の客のために台所でカルピスを作らされていた。そんな光景を見ながら、中学・高校は寮生活、今はアパートで一人暮らしの鷹也は、ちょっと彼をうらやましく思うのであった。 4年生にまでなって、週に5日も大学に通わなければならないのは、教職のためでもあったが、実は未だ一般教養の科目が残っている、つまり最履修しているからでもある。鷹也は5年生にはなりたくないので、朝8時半には家を出て、せっせと大学に通っている。  2週間後からは教育実習も始まる。とある都立高校へ行くことが決定している。 「ちきしょう、徳之のやつ、卒論ないなんて詐欺だよなぁ。しかも、ほとんど授業出てないのに『優』ばかりだし」  鷹也は道路の真中でつぶやいた。 「教職取れてもなぁ、就職できるかわかんないし」  この頃にもなると、進路のことが不安になってくる。時世が時世である。うわさによると、徳之はダイレクトメール来まくりの電話鳴り捲りということである。どこからか内定をもらっていても不思議ではない。 「国文やってても就職口はないよな……」  どうして気付かなかったのか、などと言われてもバブルの真っ最中に18歳の人間がそんな事まで考えが及ぶはずもあるまい。 「どうして、こう文学部は迫害されなきゃいけないんだよ。政経とか法のやつらと何が違うんだ」  考えれば考えるほどむかついてくる。第一景気などというものは、大学生じゃなくて社会人、否、政治家たちが決めることであるが、景気が悪くなると被害を受けるのは力の弱い人間たちである。中小企業や学生は被害者であるはずなのに、なす術がない。むしろ、さらに被害は増えるばかりだ。 「教職なんかやめて、さっさと中小企業にでも就職しようかな。今ならまだ間に合うかも」  儒服を捨てて軍服ならぬ、TシャツGパンを捨ててリクルートスーツ、である。が、一瞬でその考えは彼の脳裏を去った。 「神保町でも行くか」  足は自然と大学ではなく地下鉄の駅へと向かっていた。なんだか半分自暴自棄であった。こんな時、横に本やゲームではなく、側に誰かいて欲しいと思うのは、誰にでもあることだろう。  鷹也がそのニュースを知ったのは、教育実習の始まる前日の夜のことだった。コンビニで立ち読みした雑誌に出ていたのである。 『えせくす、ニセウェアに吸収合併』  見た瞬間、コンビニを飛び出して家に戻り、徳之に電話をかけた。 「徳之、どういうことなんだよ、コレ?ナミ姉どうしてる?」 「姉貴、ここ1週間くらいほとんど帰ってきてないよ。会社で色々といざこざが起こってるみたい」 「ニセウェアと合併しなければいけないほど、えせくすってやばかったのか?」 「それは……」 「どういうことなんだよ」 「ニセウェアの埋伏がいたらしい」 「埋伏?」  受話器片手に鷹也は首をかしげた。「社員8人で、どうしてまた」 「あんまり詳しいことは聞いてない」 「そっか」 「そっかじゃないだろタカ。おまえ明日から教育実習なんだろ?そんなことより、そっちの方が大切じゃないのか」 「ん、それもそうだけど」 「わざわざおまえが心配することないよ。大丈夫だって。明日からがんばれよ」 「ああ、ありがとう。それじゃぁな」  受話器を置いても、心配で落ち着けなかった。  ナミ姉はどうするんだろう。これからも企画をやっていけるのだろうか。  続編のゲームは出るのだろうか。  鷹也は『えせくす』というゲーム会社の出すゲームを特に気に入っていた。もちろん、ナミ姉がかかわっている会社であるというのもあったが、そのゲーム自体もとても好きである。  明日の支度をして床に就き、電気を消しても寝付けない。時計の秒針の音がうるさい。暴走族がアパートの前を通り過ぎる。バイクのエンジン音がしじまに響く。 「……これも、バブル経済崩壊の一端なのかな」  がばといきなり起き上がると、先日神保町で仕入れてきた数冊の本を手にした。『ワールド・レジェンドIII』の舞台となっている、世界各国の歴史に関する本である。『ワールド・レジェンドIII』は世界の英雄たちが現世に蘇らせられ、そこで格闘するというストーリーである。その登場人物の中でも、26歳で中国を統一した項羽が気に入っていた。  鷹也は項羽に関する本を読み始めた。寝れないから本を読むのであるが、ついついはまってしまって鶏が朝を告げることはしばしばである。今夜も例に漏れずに徹夜してしまい、都立高校で寝ぼけ眼を紹介されてしまうのは、数時間後の話である。 「ほほう」  やっぱりなという顔で鷹也は徳之とその隣の女の子を見た。  休日の渋谷。そんなに人、人、人であっても、偶然出会うときは出会ってしまうものである。 「徳之、おまえなぁ」 「まぁまぁ、落ち着いて。詳しいことはまたいずれ」 「またいずれ、か。今邪魔するほど、オレは悪人じゃないぞ」  鷹也は笑った。  軽く手を振って二人と別れると、ひとりでぶらぶらと渋谷の町を徘徊した。  歩行者天国は人であふれかえっていた。ストリートパフォーマンスが行われている。歌を歌う人、ピエロの格好をして、そのままじっと動かないでいる人……。ほとんどの人は見向きもしないで、その横を通りすぎて行ってしまう。  鷹也も、ちらとそちらを見ただけで、その前を通り過ぎた。 「タカちゃん」  ふと、誰かに呼び止められた。振り向くと波乃がいた。 「あ、ナミ姉。どうしたの、こんなとこで」 「あなたこそ」 「……会社は?」 「まだ引継ぎとかがね」  なんだか面倒くさくなって、今日も本当は出勤しなくてはならなかったが、さぼって渋谷を徘徊していたらしい。波乃の所属する会社は渋谷にあるのだ。 「……ニセウェア行くの?」 「それはまだわからない。細かいところが未決だし……。ニセウェア行っても今までどおりの仕事ができるかわからないしね」  波乃は苦笑した。「ところで、今教育実習中なんだってね。どう?」 「うん、結構楽しいよ。いじめられることもないし。実際教えるとなるとどうなるかわからないけど。あんまり勉強してないし」 「将来はガッコの先生?」 「のつもりだけど」 「今、暇なんでしょう?なんか軽く食べに行こう。こんなところで突っ立って話をするのも何だから。もちろんおごってあげるって」  との波乃の言葉に甘え、鷹也はついていった。  二人はファーストフード店に入った。  丁度お昼時で混んではいたが、なんとか席を確保した。 「ナミ姉、徳之は就職決まったの?」 「ノリ?とりあえず第一希望はしぼったみたい」 「知ってる?徳之、女できたこと。さっき会ったけど」 「祐加子ちゃんでしょ。知ってるよ。彼女、いつも会社の情報新聞『えせくす通信』、あれのイラストコーナーに投稿してくれてたから。しかも上手だしね」 「え?」 「『山口ぷりん之助』。家に帰ったら見てごらん」 「うそ、あれ?」  『えせくす通信』のイラストコーナーをいつも飾っている『山口ぷりん之助』という人物を知らなければ読者ではないと言っても過言ではない。 「電話があって、私がとったから、ノリに問い詰めたのよ。そしたら、住んでるところまで吐いてくれたからわかったのよ。あの子、あれでも純情なとこりがあるから」  人間、どこでつながっているかわからない。 「ナミ姉、オレの卒論手伝ってくれよ〜。このままじゃ就職が決まっても、卒業が、になっちゃうよ」 「何やるの?」 「百人一首」 「うたと歌人、全部覚えてる?」 「歌人は……」 「誰か一人か二人くらい選んで、その人についてやった方がいいかもしれないわね。謎の多い分野だし、あんまり広げてると時間がかかるだけよ。卒業するだけなら、もっと簡単に考えた方がいいんじゃないかしら」 「もう卒業なんだよね。4年なんてあっと言う間だね」 「私なんか、気が付いたら修士取ってたわよ」 「修士かぁ……」  ポテトをつまんで口にほおばる。「オレなんか絶対無理そう」 「無理だと思ったら、何もできないわよ。……ゲーセン行く?開発者と勝負なんてどうかしら?」 「うん、いくけど。あ、ナミ姉もう喰い終わってる」  鷹也は波乃のトレイがきれいにかたずいているのを見ると、あわててポテトを口に押し込んだ。 「そんなにあわてなくてもいいのに。私の早食いは職業病だから」  といわれても、相手を待たせてはいけない。鷹也は30秒ほどで全部食べてしまった。  教育実習も無事に終わったが、一息ついている暇など鷹也にはなかった。今度は卒論が待ち構えている。  毎日大学に行っては研究である。また、その一方で教員試験の勉強もしていた。しかし、一日中やっているわけではない。午後になると飽きてきて、ぶらりと出かけてしまうのがおちだった。  だが、今日は図書館でおとなしくしていた。というのは、波乃が調べものに来るというので。ついでに助言をいただこうという魂胆である。  午後になって、波乃がやってきた。 「持ってない資料からの引用があってね」 「何か論文書くの?」 「原稿料安いけどね」  といいながら、顔パスで書庫へと消えていった。  鷹也は波乃が書庫から出てくるのを本を読みながら待った。  小一時間して波乃が戻って来た。 「ナミ姉、教えてもらいたいことがあるんだけど」 「何?」  波乃は両手にコピーの束をかかえていた。資料を全ページコピーしたのだろう。 「あのさ、この論文なんだけども」 「どれどれ」  あまり長くない論文ではあるが、研究者の書く文章にはわかりにくいものもあり、「翻訳」が必要なものもある。慣れてくるとどうってことはない、とは波乃の談である。  波乃はそれに目を通すと、解説を始めた。 「この部分、これは多分学会の会誌、半年くらい前だったかしら、これについて述べている部分があるわ。それを見てみるといいかもしれない」  ひとつの論文でも、その根拠となる論文があるはずである。明記してない場合もあるので、そういうものを探すのはとても骨の折れる仕事であるし、いつもちゃんと雑誌を見ていないと、とたんについていけなくなる。  波乃は説明し終わると言った。 「誰よ、このへったくそな文章書いたの。国文学者ならもっとましな文章書きなさいよ。というわけで、もう少し有名な学者の論文もちゃんとあたらないとだめよ」 「そうする。……そうだ、この間、ナミ姉の論文見つけたよ。日本神話についてのやつ。『ワールド・レジェンド』は神話がテーマだったよね」 「ついでよ、ついで」 「どっちが?」 「そういう質問はしないことよ」  波乃は笑ってごまかす。 「ところで、ナミ姉。会社はどうするの?」 「今日、そのこともあって来たのよ」 「え?」  鷹也は聞き返した。 「結局やめちゃった。……タカちゃん、帰る?私はもう帰るけれども」 「あ、俺も帰る。もう用ないから」  鷹也はあわてて机の上をかたづけると、波乃の後を追った。  校門を出ると、そこから駅まで長い下り坂になっている。帰りはいいが、行きが大変である。  鷹也と波乃はその下り坂を下っていた。 「やめちゃったって、どうしてさ」  鷹也は波乃に聞いた。 「ニセウェアいってもしょうがないわ」 「どうして?」 「上がつるんでたのよ」  波乃は吐き捨てるように言った。「もともと、えせくすはニセウェアの傀儡のようなものだったの。出資会社を見て気が付くべきだったわ。でね、試験的にこの会社を作ったのよ。小会社がどこまでできるのか。それにバブルの渦中だったしね」 「……」  鷹也には返すべき言葉が見つからなかった。これが社会の常だとでもいうのか? 「それから、気がついていたかもしれないけど、うちのゲームはどれも家庭用に移植されていないのよ。結局、会社が拡大しすぎるのを嫌ってのことだったんだけどもね。そう、今日のために。それに、アーケードゲームだけの会社って、突然なくなったりすることって結構あるから、その辺も狙っていたんじゃないかしら」 「そうか……」 「だから、やめて、今日、教授のところに言って助手に雇ってもらえるように頼んでみたわ。たまたま席が空いていたので、OKもらえたけど」 「……後悔してない?」 「全然。どうして後悔しなくちゃいけないの?」 「だってさ……」  さすがにこれ以上は言えなかった。だが、波乃は今は後悔していなくても、いつかきっと後悔する、と鷹也は感じていた。こんなに簡単に諦めていいものなのか?それが鷹也には疑問だったのだ。  鷹也は、ふと波乃の顔をのぞきこんだ。いつものように笑顔を浮かべている。  なんでこんな時でも笑顔でいれるのだろう。本当はとても悔しいはずなのに。それをへらっと言ってのける。  一方、就職に関しても内定をもらい、「彼女」も手に入れた徳之は、祐加子の通う大学に近い大学に通っていたこともあって、週に2、3回は祐加子に会っていた。  とにかく、祐加子は絵がうまい。美術系の大学にも受かったらしいが、蹴って情報数理の勉強をしている。  話を聞けば聞くほど面白い子だなぁと徳之は思う。実のところ、対戦をした日に無理矢理喫茶店に連れ込んだが、つまらぬ女の子だったらそこでおしまいにするつもりだったのだ。だが、そうならなかった。  徳之自身、女性と付き合うことに関して、縁のある方ではあった。しかし、その女性とも2ヶ月以上持ったことがない。それは、どこか相手に物足りなさを感じるからだ。だが、彼女にはそれを感じない。共通の話題が豊富だからか。  当然、『ニセウェア』と『えせくす』の吸収合併のことも、すぐさま情報を仕入れていた。その他、アーケードゲームの新作情報もいつも早かった。ただし、徳之に負けた後、格闘ゲームはやめてしまっていたが。  一体どこに、そんな情報網があるのか徳之は全くわからなかったが、聞こうとは思わなかった。  ある日、徳之が例のごとく祐加子と食事を済ませて家に帰ると、珍しく妹の広江しかいなかった。いつもは徳之よりも早く帰ってきていて、本を読んだりゲームをしていたりするのだが。 「あれ、姉貴は?」 「知らないよ」  広江はゲームから目が離せない様子で、それだけ言うとまたゲームに熱中し始めた。 「珍しいこともあるもんだな」  本を読んでいて、意味のよくわからない漢字を見つけたので、大漢和辞典を見せてもらおうと思ったのだが、いないので勝手に波乃の部屋に入っていった。  あいも変わらず寝る場所しか確保していない部屋。本棚は本でいっぱい、畳の上にも積み上げてある。日本文学のものばかりかと思ってみていると、ゲーム雑誌や漫画が混じっていたりする。 「あれ、ギリシア神話辞典?なになに。東京夢華録?何に使ったんだろう」  大漢和辞典で漢字を調べようと思っていたことなんて、とうに忘れている。  文学関連の本ばかりだと思っていたが、哲学や歴史、科学の本なども棚の3分の1をしめている。  その中に、タイトルの書かれていないファイルが2冊入っていた。取り出してみるとかなりの重さがある。ルーズリーフが200枚以上は綴じられているだろう。 「これは……!」  絶句した。ページをめくった。細かい字がぎっしりと並んでいる。これがなんのメモ、いや、なんのデータなのかすぐにわかった。  徳之はそれらを抱えると、自分の部屋に持っていってしまった。  その日、鷹也は朝から機嫌を損ねていた。今日は授業が2時限目からというのもあって、先日は遅くまで友達と酒を飲んでいたのである。が、9時にモーニングコールが鳴った。徳之からであった。  お陰で目がすっかり覚めてしまったのだが、頭はガンガンしている。それに、徳之は今すぐ来いとか言う。 「まぁ、いっか」  授業をさぼるのが「まぁ、いっか」なのであって、徳之の無礼とも言える電話については、少々腹を立てている。徳之の家の戸を叩き、徳之が出てくると、ふてくされた顔で文句を言った。 「ごめんごめん。昨日、連絡取れなかったからさ」  頭をかきながら徳之は謝った。「早く入った」  波乃は大学へ、広江は高校に行っているので、徳之一人しかいない。 「何だよ、呼びつけておいて」  鷹也は徳之の狭い部屋の隅にある椅子に腰掛ける。 「これを見て欲しかったんだ」  徳之は、波乃の部屋から掘り出してきた2冊のファイルを鷹也に渡した。 「何、これ」 「とにかく見て」  鷹也は、徳之に言われるままファイルを開いた。  一瞬、驚きで声が出なかった。 「ねぇ、これって……シナリオじゃ……」 「思わず徹夜して読んでしまったよ。こんな壮大なロールプレイングゲームって存在しないんじゃ……」 「コンシューマじゃ苦しいかもしれない。パソコンでも何枚ものフロッピーディスクが必要になるだろうな。あるいはCD-ROMか。でも、どうかな……」  鷹也には、これがロールプレイングゲームのシナリオであることは一目でわかった。 「多分、これだけじゃなくて、セリフ部分のシナリオがあるはずなんだが」  マップ・キャラクター・敵キャラクター・町や城・アイテムなどのデータである。それらが細かく記されていた。 「……どうして、ニセウェアに行かなかったんだろう。これだけできていれば、企画くらいすぐに通っただろうに」 「それはわからないけど。とにかく、姉貴はこういうロールプレイングゲームを作ろうとしていたことだけは確かだと思う」 「見る限り、『ワールド・レジェンド』は、これの布石だったのかもしれないね」 「そうだな。神話や歴史上の人物とか、たくさん出てきているし。ところで、タカ。おまえのパソコンは何インチだっけ」 「オレの?両方あるけども……これをツールでどうにかしよってことか?」 「その通り」 「……ただ、ツールだとちょっと厳しいかもしれないな。ある程度、データを選択しないと」 「そんなに多いのか」 「だけど、やってみたい。できるものなら」 「じゃぁやってみようぜ」  徳之は右手を差し出した。鷹也はその手をかたく握った。 「だけど、勝手にやっちゃっていいのかな」 「そんなの事後承諾に決まってるだろ」  徳之は笑った。 「じゃぁ、さっそくコピーしに行くか」  鷹也は授業には出ずに、そのファイルを借りるとコピーをしに行った。  コピーをしつつ、ファイルに書かれたデータに目を通してみた。  決して丁寧とはいえない字で、ところ狭しと書かれている。  このレベルの構想を頭の中でしている人はいくらでもいるに違いない。だけど、それをここまでデータとして書き起こしている人はきっといない。  波乃はこれをいつから書いていたのだろう。各ページにナンバーは振られていたが、日付まではかかれていない。  初めの方のページは、すでに紙が変色していた。  ところどころ、二重線で消されて書き直されている場所がある。  2時間以上かかって、やっと全ページのコピーが終わった。  コピー代だけで2000円以上かかってしまった。  鷹也は、一旦徳之の家まで行って、ファイルを返すと、すぐに自宅に戻って行った。  徳之は一人、例のファイルを見ていた。いつからこんなものを作り始めていたかは全く知らなかったし、そんな素振りもなかった。  6時近くになって広江が、7時には波乃が帰ってきた。 「あら、今日は非番?」 「帰るなりそれはねぇだろ」  波乃は両手にスーパーの袋を抱えていた。それを何も言わずに徳之に渡した。徳之はその中身を冷蔵庫に入れていった。 「今日はカレーでいいかしら」 「いいって、誰も作りやしないんだから」 「だまには、ノリが作ってみる?少しは花婿修行しとかないとまずいんじゃないかしら」 「花婿修行は料理することなのかっ」 「男だって、料理くらいできないと、貰い手なくなるわよ」  波乃はくくと笑いながらも、早速夕御飯の支度をはじめた。仕込みは朝のうちに済ませてあったので、30分もしないうちに出来上がった。  広江は5分くらいでぺろっとたいらげてしまうと、さっさと自分の部屋に戻ってしまった。  徳之と波乃は、テレビを見つつ、今日のできごとなどを話ながらのんびりとカレーライスを食べた。 「そうだ、姉貴」 「なに」 「俺、こんなもん見つけたんだけど」 「なによ」 「これ」  徳之は、おもむろに例のファイルを取り出すと、波乃に見せた。 「ちょっとどこから持っていったのよ!」  波乃は叫ぶと、徳之からファイルを奪い返そうとした。だが、徳之は離さなかった。 「どうしてこんなもんまで作っておきながら、どうしてあんなにあっさり会社を辞めてしまったんだ」 「いいじゃない。私が決めたことなんだから」 「姉貴。俺たちはずっと姉貴に迷惑ばっかりかけてきたと思ってる。姉貴が博士に行かなかったのは、バイトや奨学金だけじゃ生活が苦しいと思ったからじゃないのか?確かに、こんな都会に住んでたら、家賃だけでもかなりの額が飛んでいくし、来年は広江も大学に行くだろう。いつも、メシ作ってくれたり、家事をしてくれたり、勉強を教えてくれたりしたことは感謝してる。そうじゃなきゃ。今の俺たちはないよ」  波乃は何も言わなかった。徳之は続けた。 「俺は、姉貴はいつも夢に向かって邁進していると信じてた。だけど、博士にも行かず、会社もやめちまうなんて、納得いかないんだよ」 「ノリ。あんた、なにか勘違いしてない?」 「大学で助手だなんて言っても、所詮はパシリじゃないか」 「だから何だっていうの?ノリには関係ないじゃない」 「姉貴がそんな意気地なしだとは思ってなかったよ」  徳之は冷たく言い放ってしまった。波乃は黙っていた。徳之は波乃のそっけない態度に不快感を少し感じてはいたが、言いたいことは言ったので、その意味では爽快感を感じていた。 「とにかく、姉貴。これは預かっておくから。俺の好きなように使わせてもらうよ」 「……勝手にしたらいいわ」 「じゃぁ、実体化させてもいいんだね」 「勝手にしなさいよ」 「『イエス』と受け取ったよ、その言葉」  波乃は返事もせずに立ち上がると、自分の部屋に入っていた。  徳之は、冷めてしまった残りのカレーライスを食べた。  テレビから流れてくるバラエティー番組の作られた笑いがむなしく部屋に響いた。徳之はリモコンをつかむと、テレビの電源をオフにした。 「これからは、少し姉貴のことも考えないとな……」  ひとりごちた。  翌朝、徳之は鷹也の家に赴いた。この巨大なシナリオをどう料理するかを相談するために。 「とにかく、できるところからやっていくしかないよ」  鷹也は言った。「今までいくつか、同人レベルのゲームの作成の手伝いはしてきたけど、こんな多いのは見たことない」 「ああ。それでさ、キャラクターデザインなんだけど、山口さんに頼んでみるのはどうだろ」 「うん、いいと思うよ。折角やるなら、すごいもんにしてやろうよ」 「バックミュージックはどうしよう。思い当たる人がいない」 「それはとりあえず、ツールにあるのを使おう。後でやってくれそうな人がいたら入れればいい」 「そうだな」 「大変そうだ」 「あまり無理するなよ。期限があるわけでもなし」 「でも、早くできた方がいいだろ」 「まぁね」  徳之は苦笑した。鷹也もそれにつられた。 「それから、これが完成したら、どっかに売り込みに行こう。その筋は山口さんが詳しいみたい」 「うん、いいよ。売れればいいね。ところで、ナミ姉は手伝ってくれそうかなぁ」 「多分だめだろうな……」 「そうだよな……」  鷹也は一旦話をやめると、パソコンを起動させ、データを入力しはじめた。ツールなので、マウスだけでも簡単に入力ができる。名前などはさすがに、キーボードから入力しなくてはならないが。  普段から、使い慣れているツールである。さくさくとデータが入力されていく。徳之は、それを後ろで見ていた。  鷹也は、まず、マップのデータを入力した。ディスプレイに、少しずつマップが実体化されていく。  見慣れた島が現われた。日本だ。このストーリーの一番初めに出てくるマップである。 「はぁ、だけど、こんなんでいいのかなぁ……。このデータだけじゃやっぱりわかんないよなぁ……」  鷹也はつぶやいた。  この後にどんな言葉が続くのか、徳之には容易に想像できた。しかし、どうすることもできなかった。  わからないと言いつつも、何となくのイメージで、鷹也はゲーム作りに励んでいたため、一週間、家から外に出なかった。そのくらい熱中していたのだ。  いや、実際熱中する要素はたくさんあった。  このシナリオが、自分が今までプレイしてきたゲームとかぶること。きっと、このシナリオのために、波乃はゲームを作ってきたのだろうから、それは当然だった。  このシナリオが、とてつもなく深いものであったから。今までプレイしてきたゲームで、ここまで壮大なシナリオを使ったゲームはなかった。  もちろん、これを書いたのが波乃である、というのもあった。  鷹也は、毎日数時間の睡眠だけで、もくもくとデータを入力し、テストしていたが、ふと思い出したように一限の授業に出るために家を出た。しかし、大学に着いても意識朦朧として、授業に出たのはいいものの、寝てしまうありさまだった。  昼休みになって、物凄く混みあった学食で一週間ぶりにまともなものを口にした。何人かの知り合いに出くわしたが、誰も彼も「どうしたんだ、すげー疲れてるぞ?」というようなことを口にした。それも仕方ない。目の下には隈、髪はぼさぼさ、髭も少し長くなっている。  午後は授業がなかったので、とりあえず図書館にでも行って昼寝でもしようと思い、そこに向かった。途中で卒論担当の坂木にばたりと出くわし、卒論の状況を聞かれたらしく、ばっちりです、と答えたらしい。らしいというのは、後日、書き途中の論文を見せて、この時に言っていた程できてはおらず、怒られたからである。坂木は異様な鷹也の姿に、卒論を書いていてこうなったのだと思い込んだのであろう。  坂木と別れると、図書館へ行って寝た。初夏の暑さを感じないでいられるのは、冷房のよく効いた図書館くらいしかない。  チャイムで目が覚めると、もう六時を過ぎていた。体力が少々回復した鷹也は席を立った。と、同時に波乃の姿が目に入った。 「ナミ姉、何してるの?」  鷹也は波乃の側へ行って声をかけた。 「見ればわかるでしょ。労働の一環よ」  鷹也は雑誌の山を見て納得した。波乃の研究分野とはかなりかけ離れた分野の雑誌ばかりであったからだ。 「手伝おうか?」 「大丈夫よ。それよりも自分のことはいいのかしら?ぼーっとしてると、提出日なんかすぐに来てしまうわよ」 「まぁね」  まぁね、では済まされないのはよくわかっているが、他に答えようがないし、事実、卒論はここ一ヶ月ほどほとんど進んでいない。 「でも、暇そうだから少し手伝ってもらおうかしら。このメモ見て、書いてある論文を全てコピーしてもらえるかな。雑誌は全部出納してもらってあるから」  波乃は一枚の紙切れを鷹也に渡した。雑誌のタイトル・ナンバー・論文名・著者が書いてある。「先に全部ふせんをはさんじゃって」 「うん、わかった」  鷹也は作業にとりかかった。意外と面倒くさい。誤植の多い目録から引いてきたのだろう、たまに論文が見あたらなかったりする。そういう時は、前後の号を見るとあったりする。  波乃はふせん紙をはさみ終わると、次々にコピーを取っていく。 「そういえば、閉館時間って7時じゃなかったっけ」  鷹也はあわてて時計を見た。6時45分。急いでコピー機に走る。隣のコピー機で波乃がコピーをしている。波乃は鷹也が来ると、ちらと鷹也の方を見た。 「大丈夫そうね。今日中には終わりそうね」 「へ?」  鷹也は雑誌にはさんであるふせん紙の量を見た。「この量、後15分で終わるの?」 「充分よ。なに?文系がコピー機の使い方を知らないなんて、4年間何してたのよ状態になるわよ」  波乃はしゃべりながらも手が動く。鷹也もコピーを始めるが、その半分くらいの速さでしか進まない。  先に波乃が終わった。波乃は、鷹也のノルマを手伝いに入る。  何とか、閉館5分前には全てのコピーが終わった。雑誌をカウンターへ返しに行き、かたずけをしていると、追い出しのアナウンスが入った。  そして、鷹也と波乃は一緒に外へ出た。  すでに日は暮れていた。  7月に入ると、ゲームのことどころではなくなった。試験である。普通の4年生ならば試験はなく、あってもレポートぐらいである。レポートならどうにでもなる。覚える必要がないからだ。ただし、一夜漬けはきかない。  鷹也には、試験が5つあった。最履修の一般教養と、これまた再履修で試験だけの語学がひとつ、そして専門科目が3つ。どれもこれも落とせない。試験の1週間前からノートのコピーに奔走した。  徳之も同じではあったが、試験はたったのひとつで、他は全てレポートだけであった。それでも、普段から勉強はしていたし、もう就職が決まったこともあって、他の人よりは楽にそれらを進められた。  鷹也の戦果は五分五分といったところか。語学は解答用紙が「単位ください」の嘆願書に成り果てた。他はぎりぎりで単位がもらえるか、後期にがんばればなんとかなりそうではある。  しかし、鷹也は試験が終わってもゲームを作る暇などなかった。今度は教員試験だ。さすがにここに来て危機感を感じ初めていた。就職浪人だけはしたくなかったし、第一自分のプライドがそれを許すはずもなかった。そこで、鷹也は、徳之や後でゲーム制作に加わった友人の弘前にも何も言わず実家に帰ることにした。  鷹也はブルートレインの切符を買うと、その日のうちに鹿児島に帰省してしまった。教員試験まで後3日しかなかった。  「どーせ、そんなことだろうとは思ってたけどな」  怒りを押さえながら話しているのがひしひしと電話機を通して伝わってくる。徳之であった。 「しょーがねぇだろ。オレだって自分のことしなくちゃならないんだから」  鹿児島に戻ると、言葉が鹿児島弁になってしまっていたのだが、東京の人と話すと東京弁になってしまう。不思議なものである。 「だからって、何も言わないで帰ることないだろ」 「それについては謝るよ」 「まぁ、いいか。所在はつかんだし。だけど、お前がいないと全然進まないんだよ。気が向いたらすぐにでも戻って来いよ」 「そのつもりだが、試験が終わるまでは無理だな」 「そうかわかった。電話代かかるから切るぜ」  やはり、徳之から怒りの電話がかかってきた。実家の住所や電話番号を教えたつもりはなかったのだが、昔の年賀状に書いてあったらしい。  窓から煙をもうもうと吐き出している桜島が見える。  閑散とした部屋。中学生の時からずっと東京に住んでいたので、いつしか自分の部屋は客間になっていた。部屋の隅に置かれたダンボール箱には、鷹也の下宿に置ききれなくなった漫画や文庫本が入っている。当然、人に見せられないようなものも入っているが、それらはうまく本の間に挟んである。  座り机がひとつ。机の上には、教員試験の問題集が乗っかっている。 「ゲームしてぇなぁ」  鷹也はごろと寝転がった。ゲーム機は下宿においてきていたし、弟はゲームはしない。ゲームセンターもあるにはあるが、不良の溜まり場になっている。  こんなことを考えずに勉強しなければならないのだが、なんとなく暇、という感覚が先に出てしまい、勉強に手がつかない。試験はもう明後日だというのに。  試験当日、自信なさげな顔で、鷹也は家を出た。  そんな中、徳之の周りでは色々と問題が起こっていた。  まず、波乃が結婚することになったこと。  そして、徳之の妹、広江が就職すると言い出したこと。  徳之は、そんな二人の間でうろうろしていた。  波乃が結婚することに関しては、おおむね賛成だった。適齢期でもある。しかし、広江が就職することに関しては反対だった。 「私、お金が欲しいの」  理由を聞いてもそれしか言わなかった。 「お金が欲しいだけなら、進学してバイトをすればそれでいいじゃないか。それに、初任給は大学の方が多いし、その先だって、きっと収入は多いぞ」 「でも、4年間多く働けるわ」 「金稼いでどうするつもりなんだ」 「それは、お兄ちゃんには内緒」 「だけどな……」  姉の波乃は、広江の就職に関しては何も口出しはしなかった。自分のことで精一杯だったのかもしれない。  一方、波乃の結婚のことであったが、相手は大学院卒のおなじ畑の人であった。向こうからプロポーズされたらしい。  徳之は、それを聞いて、そうか、と思った。波乃がゲーム会社を辞めたのは、こういうことだったんだな、と一人で勝手に納得していた。未だ、ゲームに対する偏見は大きい。特に年配になればなるほど大きい。だから、現役でいることだけは避けるつもりだったのだろう。  本当にそれが理由なら、徳之は波乃を許さないつもりだった。そんな理解のない男ろどうしていちいち結婚しなければならないのだ! しかし、理由を聞くことはなかった。波乃に対して腹立たしく思う一方で、祝福する気持ちもあった。ひっかかる部分が多くて素直には祝福できなかったが。  ゲームの方は全然進んでいない。新たに加わった鷹也の友達の弘前信雄も実家に帰ってしまっている。祐加子と二人だけでは、どうしても限界があるが、その間に祐加子は全てのキャラクターの設定、ビジュアル画面の下絵をあげていた。  波乃の結婚は、来年の6月に決定した。  徳之は、いつから、波乃が相手とお付き合いしていたのか全く知らなかったが、大学が同じだと聞いていたので、自分が知らなくても仕方がないと思った。しかし、波乃はしばしば鷹也に連れまわされたり、連れまわしていた筈である。鷹也は波乃に彼氏がいたことを知っているのだろうか。ふと、不安になった。鷹也がこのことを聞けば、絶対に悲しむだろう、そう思った。  徳之は受話器に手をかけたが、鹿児島に電話することはためらわれた。  と、電話が鳴った。遊びに出ていた広江が、雨が降ってきたから迎えに来て欲しいと言う。仕方なしに、傘を2本持って駅へ向かった。  いつの間に降り出したのだろう。雷も鳴っている。ぽけっとしていて気が付かなかったようだ。  駅に着くと、改札の前で広江が待っていた。 「どうもありがと」 「ただじゃないぞ」 「じゃぁ、これあげる」  広江がポケットから取り出したものは、かわいい包みにくるまれたキャンディだった。 「……何これ」 「いらないならいいよ」 「お前なぁ」 「ねぇ、お兄ちゃん。私もゲーム作るのやりたい」 「はい?」  唐突に言われて、徳之は驚いた。今までゲームを作ることに関して関心を示したことがなかったからだ。 「お姉ちゃんが元を考えたんでしょ?」 「ああ」 「ツールくらい、私だって使えるわ」 「まぁ、いいけどね」 「やったぁ」  広江は飛び上がって喜んでいる。「ねぇ、お兄ちゃん。11月締め切りで、ツールを使ったゲームのコンテストがあるんだって。それに応募してみたら?」 「知ってる。だけど、間に合いそうもないんだ」 「私が手伝うんだから、終わるって」  広江がとても嬉しそうに言う。 「そんなもんかなぁ」  鷹也が東京に戻ってきたのは夏休みが終わって2週間くらい経ってからだった。  もう10月に入ろうとしている。 「遅かったな」  鷹也の家の側のファーストフード店の店内で、久しぶりに二人は顔を合わせた。 「通ると思ってなかった筆記試験に通ってしまったからね」  鷹也は笑った。 「それならいいじゃないか」 「その後の面接にも行ってきたけど、どうかな。結果は10月上旬にわかるらしい」 「それなら、後は……」 「……卒論」  鷹也はぼそっと言った。  それでも、鷹也が戻ってきたことで、やっとゲーム作りが再開された。しかし、相変わらずペースはあがらない。そろそろ例のファイルにない部分、つまり、キャラクターのセリフやレベルが上がる際の経験値の数値を決めなければならなかったのだ。 「やっぱりさ、フツーのRPGにあるようなセリフは使えないと思うんだ」  真夜中の2時を10分ほど過ぎた時間。マウスを片手に鷹也は言った。 「そうなんだけどさ」  となりで徳之が言う。「だからと言っても、なかなかいいセリフが思いつかなくて」 「それから、オレ、コンピュータグラフィックは描けないから、弘前と山口さんを呼んで来ないと。ついでに、もう1台ディスプレイだけでいいからないかな」 「持ってきてここに置いといてもいいぜ」 「テストプレイもそろそろはじめて行こう。それは広江ちゃんがやってくれるだろう」 「来週やるか」 「そうだね……今日はもうこのくらいにしよう。眠くって」 「俺が続きやっとくから寝てなよ」 「じゃ、頼んだ」  鷹也は、徳之にマウスを渡すと、布団を引いてすぐさま寝てしまった。  徳之は、マウスを弄びながら、じっと考えていた。実は波乃の結婚のことを鷹也にまだ話していなかった。時期を逸してしまったのもある。それに、波乃が自分から言うこともないだろう。  鷹也がショックを受けるのは目に見えている。鷹也がどうして波乃と同じ大学を受けたのか。高校3年2学期の成績では、どうやって受からないランクの大学であったのは、一番の親友である徳之が一番知っていた。模擬試験の志望校の欄の「E」判定、すなわち、志望校再考。それでも、鷹也は決して諦めなどはしなかった。  複雑な気持ちだった。  1週間後、土曜日の午後。鷹也の6畳の部屋には5人の人間がひしめきあっていた。  鷹也、徳之、広江、祐加子、弘前。  弘前は、鷹也と同じクラスの人間で、彼もまた卒論にあえいでいたが、鷹也ほど遅れてはいないので、鷹也の誘いに乗った。  パソコン2台にディスプレイ2台。1台では、すでに広江がテストプレイを始めていた。  『アメツチハジメテヒラクルトキ……』で、このRPGは始まる。『古事記』の冒頭である。  次にイザナキノミコトとイザナミノミコトが登場して、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛(あめのぬまぼこ)で海をかきならす。見事なコンピュータグラフィックで二神が再現されている。この辺は祐加子の担当である。  その後にも、アダムとイヴが登場し、禁断の果実を口にする。  オープニングはこれだけである。容量の問題もあったが、あまり長くても仕方がないのでは?という鷹也の意見があったともある。確かに長いオープニングもよく見かけるが、世界の神話や歴史をベースにしたRPGのため、プレイヤーのそれらに対するイメージを崩したくなかった。  主人公は、初め古代日本に生まれ、そして、次の時代へと転生していく。  初めのマップは古代日本。  広江はある程度プレイすると、エディタでレベルを上げて、次のシナリオに入った。  古代ローマ。レムス・ロムルスの時代。ローマ市民。  中世中国。三国時代。一兵卒。  中世ヨーロッパ。「暗黒の時代」。ナイトの登場。主人公はナイトになる。  この後は、進め方によって異なるが、「ルネサンス」「戦国時代(日本)」「マヤ文明」「15世紀イスラム」「大航海時代」「産業革命」「現代(核の時代)」「近未来」などを経て。最終的には2500年、500年後の未来にたどり着く。  セリフがところどころ抜けていたり、データ・ロードのミスも続発。後ろで見ている4人はそのたびにため息をもらした。  西暦2500年。進め方によっては、ただの荒野であったり、今と変わらなかったり、ハイテクの世界であったり様々である。  広江はイベントだけを見ている。敵との戦闘はほとんど省いていた。  広江の最後のシナリオは、「荒野」であった。廃墟が建ち並ぶだけの世界。核戦争の中を生き残った人々は、一時世界を再興させるが、その世界もついに新たなる兵器で破壊してしまう。そんな中に主人公は転生する。  そして、エンディング。  一番初めのシナリオに出てきた神々がまた登場する。そして、人間の犯した罪を見ながらあざ笑い、今度は、創造神が人間を創ったことに後悔する。  しかし、神々は新たに「人間」を作り、大地に住まわせる。その大地は地球ではない。  「地球」はいつしか他の星の住民たちの伝説となった。  そして、このストーリーは終わる。  ここまで2時間近くかかった。 「どうだった?」 「戦闘を省いちゃったから、ちょっとわかりにくかったかな。イベントをもう少し増やしてもいいんじゃない。それから、BGM、これ、ツールのだよね?」 「……しまった」  広江の言葉に、4人は蒼白になった。すっかり忘れていたのだ。 「誰かいたっけよ、おい」 「高校の時の知り合いに作ってるやついたけど」  弘前が言った。 「今呼べるか?」 「わからん。電話してみよう」  電話機の側にいた祐加子が弘前にそれを渡す。  弘前は、少々話し込んでいたが、にっと笑ってOKサインを出した。 「だけど、場所あるか?シンセサイザー持ってくるって言ってるよ」「台所に入るかな?」 「まぁなんとかなるだろう」  弘前は、少しすると、その人を近くの交差点まで迎えに行った。車で来るようである。  20分ほどで、シンセサイザーを抱えた男を連れて、弘前が戻ってきた。 「ども、真壁といいます」  サングラスをかけた、いかにもミュージシャンといった感じの男。 「あれ?」  祐加子が口を開いた。「お前、秋葉原でパズルゲームやってただろ」 「え、俺をご存知で……もしかして、山口のねーちゃん」 「俺はあんたより年下だよ」 「これはこれは」  意外な展開、というより、鷹也と徳之は、祐加子の顔の広さに驚いていた。  広江に指摘された部分を中心に、手直しを加えていく。ストーリーは鷹也と徳之、グラフィックは祐加子と弘前がそれぞれ別々のパソコンで直している。その横で、真壁がシンセサイザーをいじっている。それを広江が楽しそうに見ていた。  日も落ちて、おなかもすいてきたので、近くのコンビニへ買出しに出かけることにした。 「俺、もう少しでこれ終わるから」と言って、祐加子は買い物を徳之に託した。鷹也は湯を用意することになり、彼もまた徳之に頼んだ。  鷹也は4人が出て行くと、やかんに水をいっぱいいれ、ガスをつけた。  ちらと祐加子の方を見る。髪を丁寧に結って、化粧をすれば、どんな男も振り向くような美女になるにちがいないと、鷹也はいつも思っているのだが、いつも、長髪をキャップに押し込んで、男のような格好をしている祐加子が不思議でたまらなかった。それは偏見だといわれればおしまいなのだが。  特に話すこともなかったので、鷹也は自分担当の部分をもくもくと直していた。祐加子もグラフィックに手を加えていた。  数十分して、4人がコンビニの袋を抱えて帰ってきた。  広江と弘前は、勝手に冷蔵庫を開けて、ジュースやらアイスクリームやらを詰めている。広江が何か発見したのか、鷹也に箱を投げつけた。 「見ないでさっさと捨てた方がいいかも」 「あ、これは……!」  鷹也には、これが何であるかおおよそ見当がついた。 「何だ、何だ」 「だめだーっ!捨てるべしっ!」  鷹也は叫ぶと、ゴミ袋の奥に箱を押し込んだ。  このまま行けば、次に食事をする時は、皆半死状態であろう。そのくらい気合も入っていたし、できるうちにやって、早く終わらせたかった。早くプレイできる状態にしたかった。 「今夜中に完成させて、ナミ姉をびっくりさせてやろうぜ」 「きっと、お姉ちゃん、びっくりするわ」  波乃は、広江までがこのプロジェクトに参加していることは知らないはずだった。スタッフロールを見れば驚くだろう。  鷹也はなんだか楽しかった。大学生活、もしかしたら卒論以外何もできないのではないかと危惧していたのもある。それに、一人ではない。それは、徳之も弘前も、そして高校3年生の広江も感じていた。最後に何かしたかったのだ。  翌朝、まだ元気が残っていたのは、鷹也と徳之だけだった。  それでも、昼過ぎになって皆起きて、それぞれの担当部分の続きをやりはじめた。その日のうちに、BGMも半分ほど完成し、ゲームに取り込むことができた。 「もう一度見てみよう」  ディスプレイにオープニングが流れた。音楽もそれらしくなって、より一層ゲーム内の世界が浮き出される。  戦闘やフィールドの曲も一新され、感情移入もしやすくなった。 「あとは来週だな」 「もう、これ以上は無理だ。オレ、学校行かないと卒業できないよ」  ということで、今日は解散となった。全員疲れの色があらわになっている。来週の土曜日までに完全回復するかが心配である。  結局、鷹也は一睡もしていなかった。皆が帰ると、かたずけもせずに、すぐに死んだように眠ってしまった。  相当ぐっすり眠っていたようだ。放送局の集金が来たのにも全く気が付かなかった。それに、電話のベルの音も彼を起こすことはなかった。  体力も回復して、やる気もでてきた鷹也は、卒論をあげるために学校に向かった。提出日、12月15日まで、あと1ヶ月半。前期にがんばったつもりだったが、研究をしているときりがない。  図書館には、卒論に追われた4年生以上が多数存在し、その割合が日に日に高くなっていく。  鷹也の隣で弘前が必死になって卒論を書いていた。鷹也よりは進んでいる。もう、原稿用紙に清書を始めていた。 「全然進まないや」 「大丈夫。実際、1ヶ月であげる人もたくさんいるんだから」 「そんなもんかなぁ」  鷹也は、論文のコピーに目を通した。そういえば、ここ何週間か波乃に会っていない。ずっと大学に来ていなかったからだろう。  1時間くらい経っただろうか、弘前は清書を終え、製本に入っていた。 「……終わりかよ」 「ろくなこと書いてないって。枚数も101枚」 「いいなぁ」 「これで、ゲームの方だけにしぼれる」 「もう出しに行くのか?」 「ああ」 「ゲーセンでも行こう、やってられねぇ」  鷹也机の上をさっとかたずけた。そして、鷹也と弘前は、提出場所である学科の事務所へと向かった。  図書館から少し離れた建物の5階に、日本文学学科の事務所や研究室がある。5階まで、ひいひい言いながら会談をあがっていくと、すぐ目の前に事務所がある。二人はそこに入ると、弘前は女の事務員に卒論を提出した。 「1ヶ月半前は、当然一番乗りよ。でも、担当の先生のチェックが入って再提出になったりしてね」  提出用の箱を用意してなかったらしく、急いで研究室へ行ってダンボール箱をもらってきていた。  鷹也がふと廊下の方を見ると、例によって沢山のコピーを抱えた波乃が目に入った。一生懸命仕事をしているようだ。しかし、一人ではなかった。隣に男がいる。そんな光景を鷹也は初めて見た。 「あれは……」 「おいっ」  鷹也は駆け出していた。後ろ姿で誰だかすぐにわかった。波乃よりひとつ上の佐野という男。博士課程に籍を置く日文の学生なら知らない人はいない男。  しかし、階段のところまでいって引き返した。弘前が不思議そうな顔で鷹也を見る。 「いや、何でもない……」  土曜日、そして日曜日の修羅場を経て、ついにRPGは完成したと言えるレベルになった。 まだ、昼間だったので、鷹也の部屋で祝賀会を開くことにした。といっても、コンビニでお酒やらお菓子やらを買ってきて騒ぐだけであるが。  その中で、徳之は鷹也にふと、波乃が結婚するということを耳打ちした。鷹也は「そうか」をだけ言うと、皆の輪の中に入って騒ぎ始めた。 「いやいや、長い道のりだったよな」 「卒論がなきゃ、こんなにかかんなかったけどよ」 「誰だよ、夏休み、いきなり実家に帰ったのは」  ここまで来るとなんとでも言える。  宴会もたけなわになって、真壁が持参していたシンセサイザーでエンディングの曲を演奏した。 「タイトルは『青い星の伝説』」  鍵盤を駆使した演奏に、皆耳をかたむけた。ストーリーもさることながら、BGMもすばらしいものに仕上がっている。  演奏が終わると、鷹也は言った。 「このゲームにひとつだけ足りないものがある。それは、ナミ姉の監修だ。これがなきゃ、どんなに一生懸命データを入力して遊べたところで、何の意味もない。だから、来週、ナミ姉にこれを見せに行こうと思うんだが」 「うん、それには賛成だよ」  満場一致で決まった。 「それから、このゲームのタイトルなんだけど、一応考えてはみたんだ。ナミ姉がどう考えてるかはわからないけど」 「どんなの?」 「ラテン語なんた。日本語に直すと『伝説の大地』といったとこかな」  鷹也はその辺に落ちていた紙に、アルファベットを書いた。  『TERRA FABULAE』 「『テラ・ファーブラエ』日本語的に語呂はあまりよろしくないけど。テラが大地、ファーブラが伝説。ちょっと飛躍してる訳ではあるけど……」  1週間後、徳之の家に押しかけると、家には3兄弟の他に、波乃のパートナーがいた。鷹也はやっぱりな、と思った。そこにいたのは、間違いなく佐野だった。背が高くてがっしりとした体つきをしている。  しかし、5人は、そんなことなど全く意に介さず、居間にあるパソコンを起動させて、例のRPGをはじめた。 「ナミ姉、見てくれよ。オレたちが入力したんだ。とりあえずオープニングとエンディングだけ。佐野さんも見てくださいよ」  徳之や広江も自分の部屋からその様子をのぞいていた。  波乃の表情は複雑だった。誰もが見ていてそう思った。  それよりも、鷹也や弘前は、日文一の堅物と言われる佐野がどんな反応をするかが楽しみだった。はじめのうちは見ていたようだが、そのうち目をそらしてしまった。 「どう、姉貴、この辺大作だぜ」  徳之が言った。  エンディングは4つあるが、その内のひとつ、もっとも平和的なエンディングは、自分達の創造を絶するような500年後を表現している、ひとえに祐加子のお陰である。  波乃は全て見終わっても何も言わなかった。 「それじゃ、失礼しました〜」  5人はデモプレイが終わると、さっさと出ていってしまった。 「なんか、俺、佐野の視線が怖かったんだけど」  弘前が言った。 「オレも感じた」 「波乃先輩ももう25か」 「もう、そんなんか。そうだよな、オレ達だってもう22だもの」 「そいや、佐野の実家って病院だったよな」 「ああ」 「いいな、金持ちは」  5人はしゃべりながら近所の喫茶店に入って、完成品をどこに売り込みに行くかを相談した。  ゲーム制作もとりあえず終わり、ある程度自分の時間ができた鷹也は、家でごろごろしていた。  案外、ひとつのことが終わってしまうと、暇になるものである。今まで忙しかったのが、いきなり時間が止まったようになってしまったのだ。  相変わらず、卒論の方は全然であるが、ゲームを完成させることができたという充実感と、やればできるよいうような考えが、彼を怠惰にさせていたことは確かである。  ふと、玄関に書留と宅配便の不在届が落ちているのを見つけた。まだこの時間なら、両方とも今日中に持ってきてもらえるだろう。郵便局と宅配業者に電話をした。  書留が先に来た。鹿児島からである。封書には、鹿児島県教育委員会と書かれていた。すぐさま開けてみた。鹿児島県の中学校教員の採用試験に合格した旨書かれた紙が入っていた。  鷹也は小躍りした。これで、進路が決定したのだ。  そして、いくばくかして宅配便も来た。あまり大きくない包みである。差出人は波乃であった。包装紙を破って開けると、中にはコピーされた紙の束が入っていた。その上に置いてあった便箋には、『卒論そろそろ追い込まないと、終わらないと思います。クリスマスプレゼントということで、だいぶ早いけれども、論文のコピーをお送りします。それから、この間はありがとう。他の皆様にもお礼申し上げて下さい』と書かれていた。  まだ、目録には載っていない最近の論文だった。いちいち雑誌をめくって探さなければならないので、最近の論文を見つけるのは面倒くさい。この分だと、20種ほどの関係ある部分のコピーであろう。  鷹也は波乃の好意に感謝するとともに、波乃はまだゲームを完全に捨てた訳ではなかったのだと確信した。  徳之の家に押しかけた時以来、波乃を見かけていない。波乃に一度会って、色々と話をしたいと、鷹也は切望した……大学に行けば、研究室で仕事をしてはいるのだが。  それに、教員試験に合格したことも、早く伝えたかった。  「へぇ、大学の側にこんなところがあったんだ」  鷹也は目を見開いた。大学から10分ほど歩いたところにある土手。  隣で波乃が笑う。「佐野さんに教えてもらったんだけどね」 「意外にロマンティスト? と、こんなこと言っていいのかな」 「どうぞ、ご自由に」  たまに、マラソンをしている人が通り過ぎるくらいで、静かにせせらぎの音だけが聞こえる。舗装のされていない道で、ところどころでこぼこしている。 「そっか、教職受かったんだ」 「うん、激戦区東京ほど難しくないからね」 「いいじゃない、田舎で教鞭を取るのも」 「でも、東京に10年もいたことだし、こっちにももちろん愛着はあるよ」 「よく一人で出てきたわね」 「ただ、何かから逃げたかっただけ、だけども……」  鷹也は苦笑した。今でもあの頃のことはよく覚えている。ただ、逃げたかったあの頃。 「そうなんだ……」 「ナミ姉?」 「はい?」   ちょっと先を歩いていた波乃が、はっと振り向く。 「小包、ありがとう。とても役に立った」 「あんなのでお礼なんて言わなくてもいいって。ついでだったし。ゲームのお礼も言わなきゃって思ってたからね」 「それは、徳之に言ってくれよ。立案者は徳之だから」 「あの子が、ツールをあそこまで使えるわけがないでしょ」  波乃は側にあった石に腰掛けた。鷹也もそれに倣った。 「ねぇ、ナミ姉。もうゲーム業界には戻らないの?」  鷹也は波乃を見つめた。波乃はその視線をかわすように、川の方に目をやった。  しばらくして、波乃は口を開いた。 「……あなたたちが来た後、佐野さんとは別れたわ。相手の趣味も理解できない男なんていらないって言っちゃった。まだ、ゲームに未練があるのか、なんて言うから」  波乃はけろっと言ってのけた。だけど、神経質な一面も持っていることを鷹也は知っている。 「……あのさ、オレ、じゃ、だめ、かな?」 「はい?」 「ずっと好きだった」  鷹也はじっと波乃の目を見た。鷹也のまなざしは真剣だった。「いつも何かに向かってるナミ姉が好きだった。あこがれてた。ずっとずっと前から。今、こんなことを言うのは不謹慎かもしれないけど」 「……ありがと」  波乃はそれ以上言わなかった。鷹也も他に言いたいことなどなかった。ただ一言、それだけが言いたかったのだ。  初めて会ったには、鷹也より背の高かった波乃だが、今では、鷹也の方が背も高く体も大きい。その体で、鷹也は波乃を抱きしめていた。 3年後。 「白石先生、これ、先生だよね?」  誰が発見したのか、ゲームのスタッフロールの「TAKAYA SHIRAISHI」の名を指す。  生徒数人に、パソコンルームに連れ込まれ、長々としたPRGのエンディングを見させられた。スタッフロールの一部のために。  結局、鷹也が考えたラテン語のタイトルは没になって、企画者の波乃が初めから考えていたタイトル『JAHANGASTE』がメーンタイトルになった。  『JAHANGASTE〜伝説の大地〜』というのが正式のタイトルである。 「あれから3年も経ったのか」 「3年?そんな前からあったの?」 「これは、友達と作ったんだそれを業者に売り込みに行ったんだ。オレはその時にはもうここで先生をしていたけどもね」 「へぇ!」  初めて市販されたあのゲームを見た。売り込みに成功したことは聞いていたが、下宿を出る時に家財道具と共に、ゲーム機やパソコンも処分してしまっていたので、どのようなものになったかは見ていなかったのだ。  話によると、相当なヒットゲームになったそうだ。業者はテレビCMまで作ってくれて、東京では放映されたらしい。  後期の試験が終わったその日に、卒業式を待たずに、東京駅で一人新幹線に乗ってからは、一度も東京へは行っていなかったし、メンバーの誰にも会っていなかった。たまに、徳之が近況を教えてくれるだけである。  徳之と祐加子はどうしているだろう。弘前は、真壁が、中学・高校の同級生は、そして、波乃は……。  JAHANGASTE、世界放浪人という意味のペルシア語である。まさしく、人間というものはいつでも放浪人なのである。沢山の人に出会い、別れる。それの繰り返し。繰り返すことが世界放浪人。まだ、狭い世界でしか出会いと別れを繰り返していないが、きっと、そのうち、もっと多くの人と出会い、別れるだろう。  その放浪人もいつかは旅の最中で恋に落ちる。しかし、別れなければ出会いはない。放浪人はいつしか恋人とも別れ、まだ知らぬ土地へと旅立って行く……。  そして、世界放浪人はいつしか伝説を生む。その伝説は歴史という名で私達の前に現われるのである。  ゲームの最後のメッセージには、こう書かれていた。 __END__  大学生でいられるのも、後たったの1年。この1年で何ができるだろう。  ただ、大学に通って、それだけ?これから社会人になってしまったら、きっと時間なんてなくなってしまう。根底にある思いは、誰もが同じ。なにかしたい、自分の居場所を見つけたい……。  たまたま見つけたゲームのシナリオを実体化させていく様子を描いた青春物語。そして、ちょっとだけラブストーリー?  というまとめ方は反則?(笑)  結局、全てのキャラの中に少しずつ自分がいるわけで、こいつのこういうところは私だなって、書いていてよく思う。あの子のここは、私、とか。  もちろん誰か(特定の誰かではない)がいることもある。あの子のここはきっと誰々さんだな、とか。  自分以外て、思っている以上に書くのが難しい。だって、まずわからないじゃない。何を考えているかなんて。  今回のは、1995年8月に書いたものです。かなりあわてて書いたのか、意味不明な文章が多くて、かなり修正しました。半分くらい直してる?そんなことないか。誰かdiffとってください(笑)。後は、嘘書いてた部分があったので、それも修正。  当時は偏見が今以上に強かったので、これはちょっとなと思う部分は削除しました。  何かやりたいんだけど、って思うことないですか?なんでもいいから。そう強く思っていた時期に書いたものです。毎日バイト先と学校との行き来だけしていて、そのころのぼくは、逆に言えばそれら以外に自分を見つけられなかった。  この中に出てくる、ゲーム『JAHANGASTE』は、これを書く前から長い間妄想していたものです。まぁ、ちゃんとしたシナリオを提示できているわけではないし、これのゲームを作ったところでおもしろいかはわからないけれども。しかし、その妄想を全くメモしていなかったので、どんなものにしたかったのかは、もう闇の中です。今みたいに、もっとまめにメモを取るべきだったぞ > 秦野  『JAHANGASTE』という単語は、なんかの本を読んだときに見つけた単語で、いいなと思ってメモしていたものです。世界放浪人。  鷹也も徳之もきっと、パソコンオタクなんですが、これを書いたのは7年前。NECのPC98シリーズの全盛期です。それっぽい記述もあるんだけど、説明はあえてつけてません。今なら、CD-ROMとかDVD-ROMとかあるから、容量に関しては、そんなに気にしなくてもいいはずです。だけど、当時はFD(フロッピーディスク)がメイン。そして、ディスクのサイズも、主なもので3.5インチと5インチのものがありました。そういう説明を小説中でするべきか正直悩みました。7年経って読み返して、時代の変遷を感じました。だけど、これは説明はいらないと判断しました。それは、どうせまた10年とか経ったら変わってしまっているだろうから、という理由です。もちろん、そんなこと知ってなくても、この小説を読む上で支障はなかろう、というのもあります。わかる人だけ、密かにほくそえんでくれれば本望?  全体的に、キャラが立ってない、というのは何度読み返しても思います。だけど、7年前のぼくはこれが限界だったということで、許してください。これからも、まだまだ小説を書きつづけます。絶対に。  また気が向いたら読んでやってください。感想文句なんかもいただけたら嬉しいです。