たとえばこんなおはなし  五月五日。  1年中で一番悪いとされるこの日、彼は生を受けた。父の「捨ててこい」という命令に逆らって。母は彼を立派に育て上げた。  五月五日。  この日に生を受けなければ、こんな話は伝わらなかったはずだ。  それはともかく、彼、田文こと孟嘗君は、十数人の半ば勝手についてきた食客たちと共に、秦の都咸陽に向かっている。秦の昭王が彼を宰相に迎えたいとのこと。  宰相。何も悪い話ではない。孟嘗君は、斉の公子であるが、己の才を買ってくれる人がいるのなら、どこへでも行く。それが戦国のならいであった。  この事態は、素行、前歴、出身はあまり重要視しない。我が国を覇者をなさんとするなら、そのようなものはかえって邪魔だったのである。特に秦という辺境の国では、その傾向が強い。だから、のちに天下統一できた。  彼の故郷、薛というところから咸陽までは長い道のりである。途中色々な街に寄りながら、旅路を行く。  数十日して咸陽に着いた。  咸陽。ここには別に目新しい物はない。文明は東の方が栄えている。  孟嘗君は、秦の昭王に謁見したのち、屋敷を与えられ、そこで宰相の地位を受けるのを待つことになった。ところが。 「閣下。孟嘗君を宰相とするのはお止めなさいませ」  こう昭王に申し上げたものがいた。 「どうしてじゃ」 「孟嘗君は斉の公子。秦にいても斉のことを第一に考えて政をするに違いありません。そんなことになれば、今まで築いてきたこの国はどうなります」 「それもしょうじゃな」  あっさりとしている。昭王はすぐに孟嘗君に自由を束縛した。ということは、のちに殺すということである。 「どうしよう」  彼はついてきた食客を前に、ため息をついた。屋敷のまわりは、すでに幾人かの兵士によって囲まれ、容易には外出できなくなっている。 「そうです、公子。いい考えがあります」  秦国通がはたと手を打った。 「おお、どんな方法です」 「昭王の愛妾をうまく丸め込めば、何か突破口が開けるかもしれません」 「おお、それは名案。どなたか行ってはくれませぬか」 「それなら、私めにおまかせを」  全国を歩き回っていた縦横家が立ち上がった。 「頼まれて頂けますか」 「はい、この舌を以て、必ずや口説いてみせましょう」  彼はすぐに支度を済ませると、時期をみはからって昭王の愛妾のところへおもむいた。  ところが。彼は青い顔をして戻ってきた。 「どうなさいました」 「はい、それが、彼女はあの狐白裘が欲しいなどと申しまして」 「あれを!」  狐白裘は、孟嘗君が秦王に献上したもので、狐のわきの下の白い毛でつくられた皮衣である。これを一着作るのに、何千匹という狐が必要なのだ。 「うーん、困った」  孟嘗君は、ひげをしごきながら、宙を睨んだ。 「公子、あきらめるのはまだ早いですぞ。それがしに妙案が」 「おお、何でございますか」 「それがし、もとは一度たりとも捕まったことのない大泥棒でした。それがしがあれを盗んできましょう」 「それはいい!」  大泥棒は、いくつかの仕事道具をひっさげてすっと出ていき、しばらくしないうちに狐白裘を盗んできた。 「では」  さっきの縦横家は、狐白裘を持って、愛妾のところへ再度おもむいた。  果たして、屋敷の周りにいた兵士はいなくなった。 「今夜こそここを出よう。運良く今日は新月」  孟嘗君とその食客たちは、夜陰に乗じて屋敷をこっそり抜け出した。  ところが。  秦国の出入り口、函谷関のところまで来たのだが、まだ丑の刻。このころ、関は暗くなると閉め、朝にわとりの声によって開けていた。そのにわとりはまだぐっすりと眠っている。 「追手が来ているかもしてない。はやく出ないと、今までの苦労は水の泡。いかがせん」  孟嘗君は、くるりと食客たちを見回す。 「ここまで大人数だと、関所破りはできませんな」  もと大泥棒が言う。 「まさか、守備兵を説得するわけにはまいりませんし」  と、縦横家。 「公子、私にお任せください」  一人が前に進み出た。全員の視線が彼に集まる。 「先生、どうなさるので」 「私は、どうぶつの鳴き真似をして生計を立てていた者です。にわとりの鳴き真似をして、にわとりたちを起こしてみせましょう」 「おお、それはおもしろい」  鳴き真似名人は、関の側まで行くと、一声「こけこっこー」と鳴いてみせた。  すると、その声を合図に本物のにわとりたちが次々に鳴きだしたではないか!  守備兵があわてて飛び起きてきて。関門をひらく。 「やった!」  一行は、先に模写の名人と秦国通によって作らせておいたニセ手形を使って、すんなりと関を通過した。  秦国を出てしばらくすると、陽がのぼりはじめた。 「皆様のおかげです。秦から抜けられたのは」  孟嘗君は深々を頭を下げた。 「いえいえ、これは全て公子の器量の賜でございます!」  一行は、ニコニコ顔で薛へと帰って行った。  「何っ! 己が捧げた狐白裘を盗んで、余の女をたぶらかして、函谷関をにわとりの鳴き真似で開けて、ニセ手形で逃亡しただと! 許せん! いつぞやその首ひっ掻いてやる! 覚えていやがれ!」